2015/11/30 東奥日報

 満州から引き揚げ 「風化させぬ」絵本に

 終戦時に満州(現中国東北部)から引き揚げてきた体験を紙芝居にして30年以上にわたり語り続けているむつ市の元教員高屋敷八千代さん(78)。その紙芝居が今月、絵本になった。戦争を知らない多くの人に見てほしいと「下北の地域文化研究所」が発刊した。「戦争の悲惨さ、愚かさを風化させてはいけない。たとえこの先、私が語れなくなっても、絵本が私の思いを伝えてくれる」と高屋敷さんは話す。(近藤弘樹)

 高屋敷さんは1937年、母の実家の佐井村で生まれた。大湊町(現むつ市)出身で教員だった父が満州にある開拓団の国民学校へ赴任し、家族で満州へ渡った。現地で妹や弟が生まれ、家族は7人になった。満州は日本国内よりも暮らしは安定しており、家族で楽しい日々を過ごしていた。

 45年8月、状況は一変する。当時8歳だった高屋敷さんと家族は、開拓団の人たちとともに駅に行って汽車に乗るよう役場から命じられた。日本が戦争に負けているとは知らされず「避難訓練だと思った。汽車に乗れるんだという感じで、遠足気分だった」と高屋敷さんは振り返る。

 馬車で移動し「白城子(はくじょうし)」という駅に着くと異変を感じた。列車は既に発車して姿はなく、先に着いた人たちが列車に積めずに残していったたくさんの荷物が散乱し、それを人々が奪い合っていた。

 列車に乗るため、線路や鉄橋を2昼夜にわたって歩いた。疲れと空腹、眠さ…。途中、高屋敷さんら一行から持ち物を奪おうというのか、鎌を持った中国人に追われて命からがら逃げたりもした。

 何とか列車に乗り込み、新京(現長春)に着き、引き揚げ者のための待機所で暮らすことになった。1家族に対し、1日おかゆ1杯が配給された。「野菜くずも拾って食べたが足りるはずがない。幼い弟たちは『ううもん(食べ物)ちょうだい』って、いつも言っていた」。1年後の46年8月、帰国することになった。3歳と1歳の弟2人は既に病気で亡くなっていた。

 小学校教員になった高屋敷さんは正津川小学校(現むつ市)に勤務していた84年、中国残留日本人孤児の肉親捜しの報道を見た児童から戦争のことを聞かれた。自分の体験を伝えていかなければ―と、職場の仲間とともに紙芝居を作って県内外の学校や戦争を考える集会などで上演を始めた。多い時は年に30~40回にも上った。

 「やんちゃな児童が紙芝居を食い入るように見て、戦争をやめさせる人になると話してくれた」「紙芝居を見た児童たちが、学芸会で戦争をテーマにした演劇をやってくれた」など、うれしいことがたくさんあった。上演は今も続けている。正確に数えてはいないが300回は超えているという。

 一方でここ数年、子どもたちの反応が淡泊になってきた気がしている。食べ物がなければスーパーで買えばいいのでは─と話す子もいた。「戦争はどこか遠い国のこと、自分とは関係ないという雰囲気。大人の感覚自体がそうなっているだろう」。戦争の風化を懸念していた高屋敷さんは戦後70年の今年、知人から紙芝居を絵本にすることを勧められた。新たに5枚の絵を描いて再構成し、A4判横型で53ページの絵本ができた。今も耳から離れない弟たちの言葉をタイトルにした。

 「戦争は兵士だけでなく家族にも降りかかる。そして弱い者から犠牲になる。戦争は絶対にしてはならない」と高屋敷さん。発刊した「下北の地域文化研究所」の斎藤作治代表(85)は「戦争は若者の希望を奪う」とした上で「絵本の最後の絵は、生きていることの素晴らしさ、平穏な日々を取り戻した喜びを象徴している」と語り、平和の大切さを強調した。

 絵本「ううもん ちょうだい」は11月10日発行で2千円(送料は実費)。県内の主な書店で販売している。問い合わせは斎藤代表(電話080・1820・9439)へ。