諸行無常。 | 「読む!ことぴよでいず。」

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毎日不安である。きっとほとんどの人が、程度の違いはあれど、毎日不安を抱えて生きているのではないだろうかと思う。

仏教には「時間の経過」という概念がないという。ただ、「存在するものの移り変わり」という点から捉えるらしい。本で読んだ。
時間などそもそも存在しない、とは、予てより感じていた。時間の流れは人によって異なるし、同じ人の中でも、同じものではない。
7歳の時のわたしと、今のわたしでは、明らかに1時間の感じ方が違う。今のわたしでも、1人でいる時と、友達といる時、そんな違いだけでも、時間が経つ速度が違っている。時計の面のように、平等に1時間が進んでいるなど、嘘だ。
時間をつくった方が、社会を機能させやすいから、ある、ということになっている。と、漠然と。

日々、目の前のものが、それぞれの物体が持つ速度で、移り変わっている。のではないかと。


この世に存在する全てのものは移り変わる💭
今日、明日と、区切りがつけられているけれど、それだって本当は存在しない。地球が回り、動き、世界が明るくなって、暗くなる、明るくなって、暗くなる。
目の前にそれが繰り返し起こる。それも永遠ではない。諸行無常。


諸行無常といえば、平家物語に有名なフレーズがある。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」
誰しも1度は聞いたことがあると思う。祇園精舎の鐘は金属なので、固有振動数というものがあり、基本的には同じ音が鳴っているはずである。しかし、諸行無常の鐘の声と、いつも変わって聴こえているという。
これは、鐘の声が変わっているのではなく、我々が日々変化しているから、違って聴こえると言うことを表現している。その対象物が変わっているのではなく、わたしという人間自身が日々変化していく諸行無常のものであるから、対象のものが変化して見え、聴こえるのである。

人間が変化するからこそ、諸行無常の鐘の声がある。

とすると、この世には変わらないものも存在するが、日々自分というものが変化しているので、変わって見えている、ということになるのだろうか。
高校生の時、人間は因果を逆に考える思考の癖があると、先生が言っていたことをよく覚えている。
この世の全てのものは変化が絶えないから、私の目に諸行無常にうつるのではなく、私自身が絶えず変化し、消滅していく存在だからこそ、全てのものが諸行無常なのではないか、と考える。。。




人間として社会的な生活を送っていると、全てが無意味に感じてくる。
生物である以上、種の繁栄と存続のために命を全うすること以外に、なんのやる事があるのだ?と思う。
読んだ本には、「人間が生きる意味を見失なったとき、そこに光を輝かせるのが宗教」なのだと書いてあった。

それがいわゆる、宗教に入った人々が言っている(言ってそう)「救う、救われた」という表現なのだろうか。
確かに、生きる意味が分からなくなったとき、そこに光を輝かせてくれたら、それはもう大変に素敵な事だ。救われる思いだ。
なるほど、と、ちょっぴり納得した。

そもそもこの思考しているわたし、とは誰だ?君はなんだ?どこにいるんだ?と思う。所謂「悟り」に分類される価値観らしい。悟りついても何冊か本を読んだのだが、しっくり来ていない。その読んだ本以前の、もっと初歩の思考が足りていないのだと感じている。
様々な宗教観や、思想を知ってみたい。知ること自体が楽しい。





本も、昔は小説ばかり読んでいたが、最近はエッセイをよく読んでいる。