黒島の御嶽と観光と | blog:kudoh

黒島の御嶽と観光と

間があいてしまいましたが続けますね(;´д`)

来ました!3年振りの黒島!

全然3年振りな感じがしません。

黒島全体はこんな感じです。

何もないところが多いですねー。

3年前にも書いちゃてるかも知れませんが、ざっくり黒島をご紹介、黒島は別名フシマやサフジマと呼ばれていて、野国島(ヌングンジマ、山や川や田圃のない島の事です)で、平べったたくて、ハートの形をしていて、牛さんが人間よりも沢山いて、サキシマハブもいますし、海が綺麗で、御嶽はワンって読みます。

で、今回は、その御嶽を巡りたいのです。

全部巡りたい!、、、のですが、いくつあるのかわかりませんので、全部は心意気だけです٩( ᐛ )و

琉球国由来記に、黒島には8つ御嶽がある(八嶽)とあったので8つはありそうですね。

八嶽(ヤーヤマ)は琉球王府時代には公儀(クギ、クギィ)御嶽として信仰の中心だったんですって。


早速ですが、フェリーが黒島港に入港すると、白い鳥居が目に入ります。

草木の中で白が眩しい。

こちらは八嶽のひとつ、保里御嶽(ウブワン)です。

ここからでは見えませんが、御嶽は鳥居からだいぶ奥みたいです。
大和から来た男性が黒島の女性と結婚したけど、大和に帰る事になっちゃって、奥さんが航海安全を祈願した場所に建てた御嶽がこちらの保里御嶽です。
大和人の旦那さんは無事に大和に帰れたそうですよ。
神名イヘノ白玉、御イベ名モモケヲタヘ。
保里御嶽はお名前の通り、保里村の御嶽なのですが、保里村にはもうひとつ、

保里御嶽のすぐ近く、保里御嶽からアサビシバナに向かう道の途中の右手に伊見底御嶽(イミスクワン)があります。

こちらも航海安全をウガンする御嶽。

大和からのお船に乗っていた蛇さんが、実は蛇の神様で、この場所、イミス浜から黒島に上陸したんですって。

でもね、5年くらい前の竹富町史だよりには、この蛇神様のお話が保里御嶽のこととして書かれていました。

同じ保里村の御嶽ですし、ふたつの御嶽は何か関係があるのかも知れませんね。

参道が短く、鳥居の目の前が御嶽なので香炉も拝見出来ます。

保里御嶽のように鳥居から御嶽が見えない作りの時だけではなく、こちらの伊見底御嶽みたいに御嶽が目の前に見えても、参拝しないようにしています。
それって失礼なんだろうなぁとは思うのですが、「他所の人にお参りされたくない」と云うお話を伺った事があります。
他部落の御嶽はウガンしないと云う島の方のお話も伺った事があります。(集落の事を部落とも呼ぶそうです)
ご先祖様や神様(?)に失礼かどうかより、現地の方々に嫌な思いをさせてしまうかどうかの方が、工藤にとっては重要かなと云うだけで、御嶽を参拝するのはやめましょうって呼び掛けではありませんよー。


アサビシバナ。

草がいっぱいだったので、上には登らず、

3年前には上ってみました

隙間を抜けて、

海岸に出ます。

なんて青い。

こんなに、こんなに綺麗なブルー。

工藤の知る限りでは悪天候でも黒島の海は青いです。


黒島牛祭り広場へ向かう途中、記念碑を見掛けました。

[日本最南端の町 黒島 沖縄県八重山郡竹富町]とあり位置、面積、人工などが記されています。

黒島を含む竹富町は日本最南端の町なんですね。

知ってはいたはずでしたが、改めて納得してしまいました。


黒島牛祭り広場!

3年前に工藤が牛セリ市場とか書いていますが、牛セリ市場ではありません、黒島多目的広場です(;´д`)

第28とありますね、あれ?3年前は第27回って書いてあったような、、、2年くらいお休みしていたのかな。


牛祭り広場の少し先に、本物の牛セリ市場があります笑

今はとても静かで長閑ですが、セリの時には賑やかなんだろうなぁ。


あ、拝所があります。

どなたかの拝所かしら?

個人の拝所から御嶽になる事もあるそうです。

集落内にいくつか拝所がありますが、詳しい事はわかりません。

[老人会記念事][一九六〇年一月]と読めます。

老人会記念事業かな。


とっても目立つ展望台!

その周辺には乾震堂や、

黒島小中学校があります。

正面に見える体育館(?)の奥には保育所もあります。

展望台に上っちゃう。

地図の真ん中に黒島がくると、太平洋がいっぱいです。

展望台から見る乾震堂。

鳥居の左の方にある白い建物が乾震堂かな。

3年前は草木で見えなかった気がします。

ああ〜、この景色。

広〜い。

小さい島なのに広〜い。

この道をまっすぐ行くと東筋(アガリスジ、アースン)集落があります。


東筋集落に来ました。

こちらは比江地御嶽(ページワン)。

結願祭(キチガン)の2日目の会場です。

比江地首里大屋子(ページシュイウフヤク?)の弓のお稽古場に、比江地首里大屋子の子孫が祠を建てて御嶽になったんですって。

東筋村にはこちらの比江地御嶽を含めて6つも御嶽(乾震堂も含めると7つ)があるみたいです。


東筋村の南神山御嶽(パイハメマワン、パイカメマワン)は八嶽のひとつです。

画像中央の森みたいになっている辺り(山中?)に南神山御嶽があると思います。

こちらの鳥居は第一鳥居で、奥には第二鳥居があるそうですので、御嶽までだいぶ距離がありそうです。

南神山御嶽は、お兄さんの航海の無事を妹さんが祈った場所に建てた旅御嶽だそうです。
詳しいはわかりませんが、オナリ神信仰なんだと思います。
神名阿宇慶山、御イビ名ヲトウソイ。

トゥニムトゥは崎原家ですが、神司の出自は崎原家から東筋家に移っているそうです。

同じく東筋村の喜屋武御嶽(キャンワン、ケイワン)。

こちらも八嶽のひとつです。

喜屋武御嶽は、宮古の若文子(ワカテグコ、ワカティクグ、ワカテクグ、下級役人さんのことだと思います)と宮里村の浦崎家の女性が黒島で恋仲になって、役人さんが宮古に帰る時に、役人さん達が残していったとも網を岩石に結んで、それをご神体として、役人さんの航海の無事をお祈りしていたら、役人さんは無事に宮古に帰れたから、お祈りしていた場所を霊地として信仰して、旅御嶽として創建したんですって。

女性は喜屋武家に嫁いだから、この御嶽のトゥニムトゥ(宗家)は喜屋武家で、屋号で喜屋武御嶽ってお名前になったそうです。

でも喜屋武家は途絶えてしまったので、現在のトゥニムトゥは新城家らしいですよ。

でもね、沖縄本島の喜屋武崎(喜屋武岬の事です)から来た若按司がここに着いたから喜屋武御嶽って説もあるそうです。

急に文子が按司に⁉︎いえ、宮古から来た若文子と、本島から来た若按司は全くの別人で、若按司は船越グスクを築いたとされている富名腰(ふなこし、ふなくし、船越、舟越)按司の息子さんなんだって。

若按司さんは宮里村に、お家って云うかお城を作ったみたいで、それがイヌムル(イヌムン)です。

神名はエレキヤカヒ大嶽、御イベ名はイラビヲヘ。

喜屋武御嶽の鳥居を通り越して、道をまっすぐ進むと行き止まり。の右手に海に続く道がありました。

ここからキャングチに行けるはず。

うわー!

海、青いーーー!!

壊れた桟橋と喜屋武御嶽が見えます。

鳥居から離れていたんですね。

航海の無事を祈った(若しくは喜屋武岬から辿り着いた)場所だから、海が目の前なんですね。

壊れた桟橋がなんとなく物哀しくも、懐かしくもあります。

いつ頃まで使われていた桟橋なのでしょう?

黒島の桟橋と云うと長〜い伊古桟橋が有名ですが、こちらの桟橋も魅力的です。

澄んだ海水。

海水に澄んだって表現どうなんだろうって思いますが、キャングチ全体がとても澄んで清らか。

干潮で見える岩肌が、なんだか神々しいです。

桟橋から振り返ると、シーサーさんと目が合ったような、合っていないような。

美しい配色のシーサーちゃんは、ここから何を見ていらのかしら?


続く。