黒島の御嶽と観光と2 | blog:kudoh

黒島の御嶽と観光と2

心地良いキャングチを後にして黒島灯台へ!
灯台、見えてますが、まだ遠いのです。

到着。

黒島灯台はですね、港の反対側の何もない所に佇んでる真っ白な姿が好き。

凛としている。

海に続く道を行き、

海側から見上げる黒島灯台、素敵ですよね。


何もない所と云いましたが、灯台のすぐ近くには旧乾震堂があります。

乾震堂は黒島の中央(学校の東側)にお引越ししたので、旧なのですが、

お手入れが行き届いています。

こちらも今も拝所なのかしら?

今回も前回も入っちゃいましたが(・_・;


旧乾震堂を通り過ぎ海に出ると

右手に新城島(アラグスクジマ)が見えました。

下地島に行ってみたいな、、、。

仲盛の遠見台(波照間ムリ)とか、学校の跡地とか一度で良いから行ってみたいです。

(新城島は上地島と下地島にわかれていて、上地島には連れて行って頂いた事があるのですが、下地島には行った事がありません。)

さて、島の西側の道を北に進むと左手に

南風保多御嶽(パイフタワン、ハイフタワン)が唐突に登場!


南風保多御嶽は仲本村にある御嶽で八嶽のひとつです。

五穀豊穣、海の幸、海上安全の神様が祀られているらしいのですが、定かではないんですって。

旧南フタ村(ハイフタ村、パイフタ村、ハイヒタ村)に創建されて、南フタ村の神霊所として祭祀の中心地だったそうです。

オモト山から来た南フタの神様が入った社に建てた御嶽なので、鳥居はオモト山に対座しているんですって。

でも北方系の神様が渡来したと云うお話もあります。

(南フタ村は、黒島に最初に出来た東里(アーサト、アーザトゥ)村が2つに分村して出来た村のひとつです。

後に津波で迎里(ンギストゥ、ンギスト)村が流潰にあって、ンギスト村の仲本家の祖が、迎里村、南フタ村、山崎(ヤマサキ)村、中シトゥ村、イーバラ村、崎原(サキバル)村、仲本(ナカントゥ)村を合併して今の仲本部落の場所に移転したのが仲本村です。)

初代神司(カンツカサ、カミツカサ)は東盛ギサマ、ずっと東盛家の系統で継承なさっています。

現在の南風保多御嶽の大司(ウフツカサ、ウブツカサ、神司の長で神司の中で1番位の高い司の事です。本来は各御嶽事にいらっしゃるそうです)は黒島全体の大司をしているので、八嶽の元(ムトゥ)と云う説があるみたいですよ。

迎里御嶽(ンギストゥワン、ンギシトゥワン、ンギストワン)の大司が島全体の大司だけど、迎里御嶽の大司はご不在なので、南風保多御嶽の大司が島全体の大司とのお話もあるようですが、詳しい事はわからないんですって。

神名は阿宇慶山、御イビ名はエラヒヲタイ大神。


南風保多御嶽から迎里御嶽へ向かう途中に、仲本海岸に寄りました。

タイドプールが!

流石、八重山でトップクラスの美しさ!

お船が沢山。

石垣島と西表島の大原港を往来するフェリーかしら?

奥の島影は西表島です。

仲本海岸のビーチを振り返って見てみると、干潮なのに、砂浜部分あまりないんだなぁと改めて思いました。


迎里御嶽(ンギストゥワン、ンギシトゥワン、ンギストワン)に着きました。

迎里御嶽は海岸に近い事から航海安全の旅御嶽と考えられていたり、海と関わり航海安全の祈願所だったとの伝承は薄いとも云われていたり、はっきりした事はわからないのですが、豊穣と航海守護の御嶽と伝わっていて、旧迎里村にあり、迎里村の信仰の要だった様です。

迎里村は統廃合で仲本村になりました。

神名は阿宇慶山、御イベ名サイイ主大神(琉球国由来記によると由来不相知との事ですが、サタイ主大神と記されています。琉球国由来記に記された頃の迎里御嶽は黒島村に属していました。)。

トゥニムトゥは大工家で、神司の出自も大工家の系統から、ティジリ(カマンガー、御嶽の管理や司を支える男性)は鳩間家から、迎里御嶽は黒島八嶽の長男とされていて、迎里御嶽の大司は黒島全体の大司となりますが、現在はご不在です。


奥にチラッと見える拝殿は32年前に改装されたので、近代的な姿です。

ここからでは拝見出来ませんが、神棚も新装されたみたいですよ。

余談になりますが、[迎]は[ンギ]と読むんですね。

波照間の岸壁に、んぎしたおーりょーって書いてあったの勘違いではなかったのかも。


御嶽を巡りながら、ちょいちょい海を眺めます。

癒されるー。


夫婦ヤラブを撮りに寄りました。

前回撮ったの酷かったですからね(^_^;)

夫婦ヤラブから眺める黒島ブルー(って云うの?)サイコー!


宮里村の船浦御嶽(フノラワン、フノーラワン)に来ました。

近づけないけれど、宮里海岸側に白い鳥居と

拝殿と思われる建物が見えます。

船浦御嶽は航海安全の御嶽。

黒島での最初の造船所は南フタ村のまき泊でしたが、後に宮里村の船浦に移転して、造船業を盛んにして、船浦御嶽(フノラワン、フノーラワン)を創建したそうです。

神司は上野家の関係の方々でしたが、現在は當山家が引き継がれていらっしゃるそうです。

ティジリは多良間家の子孫の方々。


宮里村には船浦御嶽の他に、美珍御嶽(ビジルワン、ピジリワン)、名石御嶽、八嶽の保慶御嶽(フキワン、浮海御嶽、フカイ御嶽)があるみたいなのですが、見つけられませんでした。


美珍御嶽は、津久登武屋(ツクドゥンヤー)の方と松竹屋の方が夜漁(イザリ)していたら、光ってる丸い石が浮いていたから、持って帰る事にしましたが、途中で石が落ちたので、その場所で信仰したら、豊作だし、お魚もいっぱい獲れるから、御嶽にしたそうです。

信仰なさっていたのは津久登武家(津田家)や松竹家でしたが、宮里村に関係する方々は、現在は黒島にいらっしゃらないらしく詳細は不明です。

現存は御嶽の原型はなく、跡地に石垣が若干残っている様です。


名石御嶽は、栗盛家や栗元家など宮里で[当]のつく名前の方々が信仰なさっていたそうですが、詳細はわかりません。

宮里海岸(ウブドマン)の東側にあり、鳥居は北側にあるそうです。

黒島の方が「僕ここの部落の人間じゃないから、なんの御嶽かわからないけど、あの辺にもひとつ御嶽あるよ」と教えて下さった場所と一致するのですが、見つけられませんでした。残念。


保慶御嶽(フキワン)或いは浮海御嶽は八嶽のひとつです。

琉球国由来記にはフカイ御嶽と記されています。

昔、保慶村の銘里家の祖先の信仰深い方が、新城島の北のニシナーシキと云う珊瑚礁で、網を立ててお魚を捕ろうと待っていたら、60センチメートルくらいの浮いてる石が網にかかったから捨てました。

捨てたのに、その石はまた浮かんできて網にかかったので、霊石だと思ってお家に持って帰ってお庭で信仰しました。

この石を祈願してたら豊作になったから、村で農神として崇めて、神体にして御嶽を創建したんですって。

(霊石はお庭じゃなくて海岸の近くに置いて、豊作になったのではなく大漁で村の皆にお魚を配ったとのお話しもありました)

保慶御嶽は古くから保慶村(1647年の宮古八重山両島絵図帳ではふかい村と書かれています)にありましたが、統廃合により、1713年の琉球国由来記には黒島村とあります。

1723年には一島一村となりましたが、明治初期には宮里、仲本、東筋、伊古、保里、久喜(保慶)の六カ村ありました。保慶村は大正初期に廃村となり、廃村と併行して保慶御嶽は消失してしまい、現在は僅かに拝殿とイビの跡が残っているそうです。が!1980年代までフキ村とマイシト村の御嶽として信仰されていたとのお話もあります。

神名は阿宇慶山、御イビ名はエラヒヲタイ神。

トゥニムトゥは銘里家、神司も代々銘里家で受け継がれていらっしゃいましたが、現在は島にはいらっしゃらないそうです。


あれ?フズマリからロープがなくなっています。

上って良くなったのかしらと喜んだのですが、

あぶないのぼるな!ってありました。

ロープがなくなってしまっただけの様です。

プズマリ(フズマリ、タカムイ、高盛)は琉球王府時代に使われていた火番盛、遠見台です、だから上りたいの。
上りたいけれど、のぼるなって書いてあるので登りません!

再確認したい事がいくつかあったので、黒島ビジターセンターにも寄りました。

浮き玉のブランコ。


番所跡。

薩摩藩の支配下にあった時の役所がこちらにあって、首里から来たお役人さんが常駐していたんですって。

そして、学校教育発祥の地でもあります。

ここに、からぶき12坪の大川尋常小学校黒島分校が出来たのが1893年の6月です。

裏には爬竜船格納庫。

黒島で造られるお船は伝馬船(でんません)、他の島のようにサバニではないんですって。

こちらが正面かな?

正面ですね。


続く。