美術の社会性③〜美術は商業的に成功すべきか。「お金」というものに対するブロック文化 | HSP2.0・育成者、支援者、サポート者のための〜非認知能力アップ実現のためのポリヴェーガル理論理解

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敏感、繊細、感受性の高いHSP(highly sensitive person)が、生まれ持った感性と強みを仕事に活かして生きていくことをサポート。
日本で最初にHSPとポリヴェーガル理論を結びつけ、生きづらさは自律神経系のケアで解消できることを説いている。

皆川公美子です。


美術の社会性①~その原初には感じるというモードがある。


美術の社会性②~美術を語るという文化についての考察


美術が作家の個人的な制作現場から大衆のいる場所にリリースされたとき、

美術は社会性を持ちます。


今日はアートは社会的に成功すべきか。
あまりに大きなテーマなので、
そのひとつの見方を提示、、、という試みです。
昔から画家、というとベレー帽を被って貧乏である・・・ベレー帽というイメージが
つきまといますね。
それはおいといて(笑)
 

「美術の社会性③」~アートは商業的に成功すべきか   

 

美術が商業的な成功を収めるべきか、という議論はいろいろなところで
聞きます。
その是非について語っている時点で、
それはプロの仕事としての認識なのか?
と思うところもありますが、


 

特に日本では、アートは精神性の産物である、ということをもって、
アートが商業的に成功=お金に換金されるということを、
公的に推奨する発言がしにくい土壌があるように感じます。

 

この議題について簡単に語れない要因は、
いくつかの別々の問題を含んでいることにあります。

一つ目は、日本社会ではお金そのものではなくて、
お金について語ることへの、否定的な感情があります。

お金そのものを、欲しくない人はいないでしょう。

生活を豊かにし、行動の自由や、リスクに対する保証を受けられるお金は誰にとっても必要なものですし、積極的に「欲しい」ものであるということにかわりはないと思われます。

夫のお給料が増えたら、嬉しい。

宝くじが当たったら、嬉しい。
そこを否定する人は多分いませんよね。



 

 

ですがお金を「欲しい」と口に出すことは、
「はしたない」ことであるという教育がなされています。

以前友人が言いました。
息子がおばあちゃんからお誕生日にお金がよければお小遣いであげるよと言われて
本当は物ではなくてお金がよかったのだけど、「お金がいい」と言わずに黙っていた。
それが嬉しい、と。


私はこの話を聞いて、心底驚きました。
だまっているほうが、いいのか・・・
お金について口に出すくらいなら、
意思表示をしないということのほうが「いいこと」なのか・・・


他の国のメンタリティがわかりませんが、少なくとも日本では親から子供へ
「お金のことを口に出すんじゃない」という教育が、
「品格」という言葉にのせて語られます。

(テーマから外れるのでこのことはまた書きますが、
子どもたちは一生、お金とつきあって仲良くしていかないといけないし、
お金のことを淡々と語れないのは幸せなのかな?不幸なのなかな?)


それが、美術の現場でも、底辺に流れるメンタリティとして機能している気がしてなりません。

 
 

 

二つ目は、精神性というものをお金に換算するということへの抵抗感。

お金がある種「汚れたものである」という思想(儒教の影響でしょうか?)が、
人々の心のお金を受け取ることへのメンタルブロックとなっているため、
精神性の高い美術と汚れたものであるお金を
同じ土俵で語ること自体に抵抗がある、
そういう底流があると思われます。

ですが、逆に日本には「貧すれば鈍する」ということわざがあるように、
お金がなくなると思考がまわらなくなる、という考えもあります。
金銭的不自由にたいする感覚もきちんと持っているのです。

 

作家は精神的自由を持っているべきです。

そして少なくとも身体的に健康な生活を営んでいてほしい。

これは私の願いです

でもね、芸術は欠乏感のないところには生まれないのかもしれないし、
ある種の負の感情や恐怖感、切迫感がないと
いい作品はできないのかもしれません。
でもそういうクリエイティブ精神の根源的な話題とちょっと離れて
制作の材料や場所、そういうものに不自由せずに
表現の手段を確保するべきではないかと思います。
 

韓国などでは、新人作家の絵画が投資の対象となっている、という話をよく聞きます。


作品を味わうという段階が抜け落ちているのならば、
もしかしたら作家にとってはあまりよきことではないかもしれませんが、
健康な生活、自由な表現に一役買っているのであれば、
その一面では評価できることかもしれません。
そう、これは二者択一ではありません。


 

 


話は少しずれますが
先日、現代美術の会でディスカッションがあり、
アートとエンタテイメントの境界はどこなのか、という話がでました。


まずその境界線がある、という概念に、私はびっくりしました。
そしてその「常識的な境界線がどこにあるのか知ろうとする」
気持ちを驚きをもってみつめました。
アートは、その作品と向かい合った時の個人的経験がベースにあるはずです。
個人的経験をベースに、
その作品がアートなのかエンタテイメントであるか、
判断すること、それこそがアートな行為だと思います。
世界には絶対的な価値というものはそもそも存在しないし、
作品は作品に向かい合う自分を写しだす鏡なのだと思います。
誰かが決めた境界線、
それはどういう意味を持つのでしょうか。


確かに事実としてハリウッド映画はエンタテイメントとして
定義されることが多いです。
(ようするにお金儲けが一番か、精神の発露が一番なのかということ)
ハリウッド映画のプロデューサー業をしている友人に聞くと
「台本のおもしろさとか個人的なアート感覚なんて
優先させないよ。絶対にマーケットで売れる方向に本を書き直させる。」
とひどいことをいいます。。。
(アート好きにはひどいこと、と思えますよね)
売り上げのためには、過剰な個人のクリエイティビティは必要ないというわけです。
絶対に売れる方向というのは、今までに売れたという実績がある方向です。
だからアメリカの映画は勧善懲悪方式のシンプルなストーリーが多いのですね。
きっと。


それに抵抗する監督や脚本家が私財を投入して、
映画を作るというのは、よく聞きます。

もとい。
アートなのかエンタテイメントか。
難しいですが、求める結果や成果が
「精神的な発露や個人の考えに基づく実験」を1番の成果としている場合は
アート。
(売れない、ということではなく、売れるかどうかを計算された上で
世の中にリリースされていない。結果売れても、それはあくまで偶然だという方向)

「売れる、売り上げが上がる」ということを1番の成果としている場合は
エンタテイメント。

と考えることができるのではないでしょうか。

お金とアート。


成果はどこに。。。。


 

 

 

 

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