終わらない旅 | 栗城史多オフィシャルブログ Powered by Ameba

終わらない旅

生きることは、決して簡単なことではない。
息をして、目を開き、足を前に出して、一瞬一瞬の今を生きること。

その尊さ、そして難しさを、僕は風の吹き荒れる秋季エベレスト高度
8000m地点で感じていた。

山を登ることは、それほど難しくはない。
山に登り続けること、そして生き続けることが難しい。

頂に登ることができても、また頂に向かうだけ。

ずっと僕はその頂の先にある世界を目指し、誰も登ったことのない自分の山を登り続けていた。

その山はマッキンリーから始まり、
8000m峰三座を登り、秋季エベレストと、まるで山脈のように長い縦走。
振り返ると、ずいぶん高い所までやってきた。

その遥かなる頂は、それほど遠くなく、あと少しで到達できるかもしれない。

2012
年秋季エベレスト西稜。
未だに忘れることはなく、登り続けている山。


10
17日、標高7500mのキャンプ4
テントの入り口から、目の前にエベレスト西稜が鋭くそびえ立っていた。

SpO2(血中酸素濃度)
53と低く、心臓の鼓動がずっと高鳴っている。

稜線から見える景色は、北側はチベット高原が地平線奥まで広がり、赤茶色の砂と山が北を覆っていた。
ネパール側は真っ白なクーンブ氷河と神々の頂。

エベレストの稜線を挟んで、南北まるで陰と陽に別々の世界が混じり合っていた。

時折、地吹雪でテントがあおられる。
沈みかけていく太陽。

今日の夜
7:30に、アタックをすることに決めていた。
標高7200m以上で3日間、風が止み登れるチャンスを待ち続けていた。


エベレストは通常、春に登る登山隊が多い。
僕は人が多い時期を避け、生身のエベレストを感じるために「秋季」という時期に挑み続けた。

だが秋季エベレストの登頂率は春に比べるとかなり低く、挑戦する登山隊も少ない。

秋季エベレストの一番の厳しさは、「ジェットストリーム」という猛烈な風と寒気。

それが長くて2週間も山に居座り続ける。

外見は快晴だが、強風が山に当たり、張り付く雪を高く舞い上げていく。
複雑で巨大に動く風は、まるで龍のようだった。

2
日前に屈強なポーランド隊がローツェにアタックしたが、シェルパ2人がこの強風に飛ばされて滑落。
1人が1000m以上も滑落して死亡し、もう1人は重傷。

サウスコルの上部が目の前に見え、いつもなら雪で真っ白だが、今は強風で雪が飛ばされ真っ黒い岩の地肌が見えていた。


日本の山岳気象予報士とベースキャンプを通じて連絡を取り合い、このジェットストリームの中でのアタックを探っていた。

秋季エベレストを単独・無酸素で登るには、針に糸を通すようなタイミングと運が必要とされる。

2010
年・2011年は、このジェットストリームを前に下山を決めた。
2009年は、天候ではなく中国の国慶節60周年で登山期間が短縮され、無理なスケジュールの中での強行アタックだった。

この秋季エベレストは、体力や根性だけで登れる世界ではない。

まさに山の神様からの手招きが必要とされる。


今まで秋季エベレストは、僕にスタートラインにさえ立たせてくれなかった気がする。
だが今、僕は西稜にいてエベレストと向き合っている。

予報ではジェットストリームが比較的弱まる
1617日以外は、もうチャンスはない。

8000m
付近で風速20m/sの予測で、これを過ぎると3040m/sになってしまう。

心は迷ってはいなかった。
自然と身体が山と向き合いたがっていた。

太陽が沈むにつれて、テントの中は真っ暗なクレバスの中にいるかのような寒気が身体を覆い、僕は手足を動かし続けていた。


午後
6:00 SpO2 54、脈107
順応がうまくいっているのか、脈は高くても一定を保っており、息苦しさは感じない。
テントの中で食事を済ませて、アタックの準備をしていく。

食欲は、過去の登山と比べても最もあった。
まるで子供の頃に初めて行く遊園地のように、心では不安よりもワクワクが勝っていた。

太陽が沈み闇に包まれた午後
7:17、「頂上で会いましょう」と、ベースキャンプに無線で出発を伝える。

いつもなら気持ちが高ぶってしまうのだが、意外と冷静で高まる気持ちを抑えて無駄な力を使わないようにする。

ここから先はいかに自分を「無」にし、無駄な酸素とエネルギーを消費せず、足を前に出せるか。

不安も恐怖も全てはエネルギーであり、「登る」という一つの行為だけに、良いものも悪いものもあらゆるエネルギー全てを一歩に集中させる。

新月になったばかりのエベレストは、今まで体験したことのない寒気と暗闇だった。

昨年は満月の光が当たり、月の温かい温度を感じていたが、今年は月が現れることはなく、頭上を見上げると星々が会話をするかのように輝いていた。

その星々に、どんどん近づいていく。
まさに、ここは宇宙に一番近い場所であり、そして死に近い場所だった。


C4(7500m)
から北壁に向けてのトラバース(横移動)は、順調だった。

暗闇の中でも方向を見失うことなく、岩と雪の斜面を階段のように徐々に高度を上げながら、北壁に近づいていく。

時折、ポケットの中からチョコレートやパワーバーを取り出すがレンガのように固く、歯が欠けてしまうかと思うほどだ。

特注の分厚いミトン(手袋)の中にホッカイロを入れていたが、既に暖かさは消えていた。

トラバースからホーンバイン・クロワールの入り口に向けて、直登していく。

クロワールに向けての方角は合っているものの、周りが暗過ぎて本当にルートが合っているのか時々不安になる。

見下ろすと、
2009年に登った北側のノースコルが近く見え、僕はエベレストのど真ん中にいた。

風はどんどん強くなり、耐えているだけで身体から体温が奪われていく。


10
18
午前4:53
あまりの風の強さに、思うように前に進めない。

徐々に南東の方に太陽が出てきているのを感じたが、北壁に太陽が当たるのは昼過ぎで、今はまだ暗闇の中での登攀だった。

風は強風からいきなりの突風に変わり、身体が後から前に突き飛ばされた。
もしこの突風が前からきていたら、僕は背中と頭が山の下を向き、そのまま滑落していただろう。

ドンッと大きな男に後から突き飛ばされる。
これは風ではなく、まるで塊のようだった。


陽が出てくるとさらに風が強くなり、風で吹き飛ばされる雪や氷が見えていた。
うなる巨大な龍は、もう目の前にいた。

大きな一つの風の塊が当たると、一気に騎兵隊のように横に広がり、列が揃うと下から上にものすごい勢いで飛んできた。
風で飛ばされてくる小石や氷が顔に当たり、目が開けられない。

そしてまた山の方を向くと、ドンッと突き飛ばされ、僕の身体が一瞬浮いた。
このままでは、この龍に食べられてしまう。

ホーンバイン・クロワールの入り口はもう目の前にあり、真四角の大きな岩の下に身を寄せた。
それでもこの龍から逃げることはできない。

岩の下の小さなくぼみに身体をねじ込ませようとするが、龍の鋭い爪が僕を外に掻き出そうとする。


気が付くと、その岩からロープがダブルになって垂れ下がっていた。
このロープは、恐らく春に挑戦したアメリカ隊のロープだろう。

ホーンバイン・クロワールは、
1963年にアメリカ隊が初登頂に成功したルート。
確かにここを登って行った人がいたのだ。

そのロープのある岩から左に大きな岩の溝があり、それがホーンバイン・クロワールの入り口だった。


クロワールの中にも風が入り込み、ゴーという音とともに大小の龍が複雑な動きをしていた。

標高は
8000mを越えているが、体調は悪くない。
息苦しさを感じることもなく、身体の中で燃えている火も消えることはない。

だがこの風の中で先に進めば、帰って来ることはないだろう。
予報では強風はこれからさらに強くなり、風速40m/sを越えていく。

目の前に、山頂に続く一本の道がある。

この
4年間、駆け上がってきた夢への道が、徐々に細く白い線となって上に続いていた。

ここを登らなければ、山頂にはたどり着けない。

だがこの強風の中で突き進めば、帰って来られなくなるのはわかっていた。
生きるのか、登りそして終わるのか。


僕は生き続けることを選んだ。

4
年間の苦しみと様々な想い、そしてたくさんの人の応援。

夢を共有して、今までになかったエベレストの頂。
僕にとって、この頂は全てであった。

成功よりも登頂よりも、大切なのは命であり、生き続けること。

勝っても負けても、生き続けること。
成功しても失敗しても、生き続けること。


午前
6:30
「風が強く、これ以上は危険と判断しました。ごめんなさい。」
と、凍った無線機でベースキャンプに告げた。

生きると決めてから、この強風の中、なんとしても下山をしなければならない。
山は登った分、下りがある。

すでに両手両足の感覚は無くなっていたが、今までの登山での感覚とは違い、両手の動きが硬く明らかに凍傷の兆候があった。

急いで酸素の濃い標高まで下山しなければいけない。

凍傷は時間との闘い。
下山を急ごうとするが、先ほどの龍がまだ居座っていて僕を帰そうとはしない。

強風で身体を前に出せない。
だが向こうの息は長く続かず、弱まった隙をみて進み、強まると身体を飛ばされないよう斜面にしがみつく。
まるで「だるまさんが転んだ」のようだ。

前に進み、しがみつき、もがき苦しむ。


トラバース地点まで下山してきた時に、ようやく風が少し落ち着いてきた。
気が付くと、僕を飲み込もうとしていた龍から逃れることができた。

太陽のまぶしい光が全身に当たる。
だが両手両足が温まることはなかった。

この両手で、
C3(7200m)からC2(6400m)への雪壁を下山するのは困難だろう。
無線で、ベースキャンプに救助を求めた。

標高
6400mC2に撮影班をサポートするためのシェルパがおり、7300mの西稜下での合流を求めた。

しかし、彼らがすぐに上部まで上がって来ることはできない。
彼らは元々救助をする予定はない。
必要な長さのロープはなく、またC3(7200m)に向けたクロワールへの直登はブルーアイスがあり危険だった。


無事に
C4(7500m)に着くが、生きた心地がしなかった。
両手はすでに真っ白になり、血が通っていない。
動きもさらに硬くなり、石のように手が動かなくなってきた。

水分補給もできないテントの中、身体を丸くして呼吸に集中する。
生きることは、まさに息をすること。
身体が動かなくても、息をして回復を待ち続けた。


19日夕方。
C4(7500m)でシェルパとようやく合流し、夜通しC2(6400m)に向けて下山した。
西稜は、再び宇宙に包まれていた。


日本に帰国後、すぐに入院となった。
足の凍傷は軽傷だったが、右手親指以外の手の指は重傷で、第二関節より先は切断と宣告された。

激痛と高熱が続く中、僕は父に電話した。
父にあまり心配を掛けたくないと思い、しばらく電話するのをためらっていた。

父との約束は、何があっても無事に帰って来ること。
頂いたこの身体を傷つけてしまったことに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

父に電話すると、意外な言葉が返ってきた。
「おめでとう」

下山して、「おめでとう」と言われたのは初めてだった。

「お前はそれだけの苦しみを背負って、これからも登る。それはすごいことだよ。」


標高
8000m地点での下山。
4度の挑戦。
そして、重度の凍傷。

人はそれを「失敗だ」と言うかもしれない。


しかし、僕はあの場所までたどり着き、あの龍のような地球の息吹、宇宙を感じることができたことに、後悔はなかった。

「登頂成功」は一つの山の終わりであり、始まりに過ぎない。

僕が求めている頂は、成功しそうだから挑戦する、または失敗しそうだから止めておこうという壁はなく、本当に自分が心からやりたいと思っていることに挑戦していくこと。


そこには成功も失敗もなく、挑戦する喜びがあり続ける世界。

そこに僕は向かい、共有し、世界に広げていきたい。


勝っても負けても、生き続けること。
成功しても失敗しても、生き続けること。

終わらない旅は、まだこれからだ。



今回のエベレスト遠征のドキュメンタリーが、NHK総合で放送されます。

1/1(火) 13:05~13:50 
地上波 NHK総合 
「NO LIMIT 終わらない挑戦」 再放送

ぜひご覧ください。
多くの方に見て欲しいので、友人や家族にも伝えてください。

栗城カメラの壮絶な映像は、この寒さも吹っ飛ばします。

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