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“なぜ山を登るの?”皆さんに伝えたい本当の想い

いよいよエベレストの登山申請も完了し、5月10日からエベレストの7500m地点までトレーニングに向かいます。

9月の秋季エベレスト本番への資金集めを含めた、様々な課題に向き合いながらトレーニングをし、今準備をしています。

人は、何故山を登るのか?

何故、栗城はエベレストに?

そして単独・無酸素にこだわり、冒険の共有(生中継)にこだわるのか?

今まで何度も「何故そこまで?」という声が聞こえてきました。

言語化していなくても、自分の中でははっきりとした「答え」はありました。
しかし、振り返ってみると、その「答え」をまだはっきりと言葉にして伝えきれていなかったのかもしれません。

何故、レジャーに命をかけるのか?

リスクをかけた人生が、ただ好きなだけではないのか?

名誉?お金?

僕が諦めないでチャレンジし続ける理由が分からない人達にとっては、様々な憶測が飛んでいました。

僕の山登りは、決けして目先にあるご褒美のような物や、一瞬の快楽のために登っているわけではありません。

栗城にとって山登りとは何か?

それは、「山との対話をして未知なる自分を知る」ということです。
もっとも近い行為が「山岳信仰」かもしれません。

元々、日本の山登りは、レジャーとしての山登りではなく、山を神と崇め、たくさんの修験者が山に向かうものでした。

富士山も富士山山岳信仰があり、1907年までは女人禁制の世界でありました。

誰もが知っている空海さんも、山に向かっていきました。

彼らは山に入ることによって、自然と、そして自分と向かい合い、そこから学んできたことをたくさんの人に伝えていく役目がありました。

僕はお坊さんではありませんが、一人でまた無酸素でヒマラヤに向かい、様々なことを学び、それを講演や冒険の共有から伝えようとしてきたのです。

一人で山に入るというのは非常に怖く、不安なことです。

しかし、不安や孤独も自然の一部であり、それを受け入れることによって決して本では学ぶことのできない体験や学びがたくさんありました。

日本国内のトレーニングでは山の先輩と一緒に登り学ぶことも多いですが、やはり命をかけて登る山は、一人で山と向かい合いたいと思っています。

しかし、それで登頂したとしても栗城の山登りは3分の1の達成です。

残りの3分の1がその学びを多くの人と「共有」すること。

そして、もう3分の1が「共有」した人達が自分の山に気づき、一歩踏み出したくなる人達を増やすことで、はじめて3分の3となり、栗城の山登りが成功となります。

2007年から縁があって全国で講演をする機会が増えました。
そこで感じてきたことは、子供だけではなく多くの大人が、「成功」と「失敗」という言葉や現象にとらわれてしまい、一歩踏み出せない人が多くいることを知りました。

まだまだ若輩者の僕が、偉そうなことは言えませんが、今までチャレンジをしてきて見えた世界は「成功」と「失敗」を越えた世界があるということです。

それは、「生き方の世界」です。

そもそも登頂成功と言ってもその喜びは一瞬に過ぎず、再び次の山があるだけです。

また、失敗だとしても、それは成功に向けた学びと過程に過ぎません。

つまり、「成功」や「失敗」は、流れの中では一つの現象であり、そこを越えた世界が「生き方」「チャレンジすることの楽しさ」「ワクワクすること」です。

その世界に多くの人が気づきはじめた世界が、頂から見える本当の景色かもしれません。

失恋がきっかけで学生の頃から登山を始め、目の前にある山を一つ一つ登ってきた中で、今、見えている世界です。

本当に山って不思議な場所だなと思います。




※写真は、南極の白夜の中を歩く。