パリの歴史、詳しく調べてみました パリの始まり | 西方見聞録(旧パリレポート)

西方見聞録(旧パリレポート)

2015〜2020年パリ、2020年4月に本帰国しました。帰国後も”これは!”と思うものを探し、レポートしています!!

1月30日(土)
天気:雨


今日は非常にマニアックな
トピックスです。


パリという街は、
2000年の歴史がありますが、

元々の名は
ルテティア。

ルテティアとは
"泥沼地"という意味で、
もともとは泥だらけだった場所。
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元々のパリの地形。セーヌ川が今より全然太く、ルーヴル美術館、オペラ地区、エッフェル塔があるところは、すべて沼地です。だからパリの中心地はほぼ平坦

そして、その
ルテティアに住んでいたのが
パリシイ族。

もともとは
北の地方に住んでいた
ケルト人のクワリシイ族が
紀元前2世紀ごろ
この土地にやってきて、
パリシイ族と呼ばれるように。

"クワリシイ"の「K」が
ガリア語で「P」に変わり
パリシイになったわけです。
※ガリアとは、今のフランスあたりの古代の呼び名




よくシテ島が
ルテティアだったと
言われますが、

正しくは
ルテティアの外れの集落。

もともとのルテティアは
シテ島から25㎞ほど
セーヌ川を下ったあたり。



今のナンテーヌ、
つまりラ・デフォンスの辺りです。
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ナンテーヌは凱旋門からRER(JRみたいな電車)で、たった1駅。5分程度。地図では遠く見えるけど、めっちゃ近い。パリ、小さいです


この元ルテティアは
川が大きく湾曲したところで、
交通の要所でかつ
軍事的な要所だったため

当時ヨーロッパを
支配していたローマ帝国に
目を付けられ

紀元前52年、
ローマ軍に襲われることに。



町を包囲されることを
恐れたガリア人は
やむなく町を焼き払って

今のエッフェル塔が立つ場所、
シャン・ド・マルスで
決戦します。
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「シャン・ド・マルス」、エッフェル塔の下の大きな公園です。ここでローマ軍とルテティア軍が激突! もちろんこのころパリがあった場所は、なーーんにも、なかったので、ただの草っ原ですが

ちなみに、
"シャン"とは、"野原、広場"という意味、
"ド"は、"~の"
"マルス"は、ローマ側の戦いの神の名前。
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「シャン・ド・マルス」のすぐ近くのサンドミニク通りには、軍神マルスを祀った泉があります

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100年以上前から、全く変わらず立っている泉です

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ちなみに泉のすぐ横にあるビストロ「ラ・フォンテーヌ・ドゥ・マルス」は、オバマ大統領が家族で食事した店として有名。20世紀初頭から、同じ店の名前で営業している老舗ビストロ


話は戻って、
戦いは、ローマ軍の圧勝。
数千のガリア人が殲滅され、
ルテティアはローマの手に落ちます。



で、ローマ帝国は
ルテティアを占領しますが、
「ルテティアを再建するにしても、
シャン・ド・マルスの
近くにあった島の方が
防衛上よくない?」
となり、

ローマ帝国によって
シテ島に新ルテティアが
作られたというわけです。

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遂にシテ島がルテティアに!

と、いうのが
パリの始まりです。




ちなみに、
シャン・ド・マルスは
その後練兵場となり、
周辺には
アンヴゥリッド(旧軍病院)、
エコール・ミリテール(旧陸軍士官学校)、
など、
軍関係の施設が集まっています。



シャン・ド・マルス自体は、
その後
フランス革命の舞台になったり
(シャン・ド・マルスの虐殺、1791年)
ロンシャン競馬場ができる前は
競馬場があったり(1796年~)、
パリ万博の会場として(1855~)
何度も使用されてきました。


いい季節には、
エッフェル塔の下の芝生で
パリ市民が気持ちよさそうに
寝転がっていますが、

そこには
血なまぐさい歴史があったのですね。