「捨てる」の反対語は?
と質問されたら、あなたはきっと、それは「拾う」だと答えることだろう。
「出す」の反対語は?
と質問されたら、あなたはきっと、それは「入れる」だと答えることだろう。
確かに、言葉の上ではそうなる。けれど、私はそうは答えない。
「捨てる」の反対は、即ち「捨てない」であり、つまり「溜める」。
「出す」の反対は、即ち「出さない」であり、つまり「溜まる」。
そう、これは行動のこと。そして、この「捨てる」「出す」の反対行動によって、私たちの住まいは、あろうことか、見事に「モノ置き場」「モノ溜め込み空間」と化し、散らかる悩みを抱え、片づかない悩みを深めることになる。
私に言わせれば、これら反対行動の繰り返しによって起きている、余計で無用なモノたちの堆積を、「散らかり」「片づかない」といった程度の甘い認識でしか捉えず、また対応しているから、モノ溢れで病んだ住まいの病状は一向に改善しないのだ。それどころか、悪化の一途を辿ってさえいる。
さて、この反対行動の元は思考の癖。いえ、思考の癖というよりは、思考と行動の「組み合わせ」の癖と言うべきか。
私たちは、目の前の商品を“とりあえず”手に入れておこうと考える。
それが、スーパーマーケットの本日の特売品ならなおのこと。今すぐに使わなくても、いずれ使うはずだからと、目玉商品のティッシュペーパーのパックを掴む。自分の家庭の適正な使用量、消耗サイクルなど考えもしない。
私たちは、自分の家にあるモノを、“とりあえず”取って置こうと考える。
それが、高価なブランド服であるならばなおのこと。いつかまた着ることもあるだろう、少し手を入れればサイズも直せるはずだからと、自分の体型の著しい変化も流行の変化も考えはしない。
目の前のモノを、“とりあえず”手に入れ、“とりあえず”手元に留めて置こうとするのが習い。けれど、“とりあえず”手に入れるのは止めよう、“とりあえず”捨てよう、となることはない。
この溜め込み現象は、「とりあえず」だけではない。
せっかくだから買い、せっかくだから取って置く。
せっかくだから買わない、せっかくだから捨てる、とはならない。
なんとなく手にして、なんとなく溜めて置く。
なんとなく手にしない、なんとなく捨てる、とはならない。
ちょっと手に掴み、ちょっとどこかに突っ込んで置く。
ちょっと手を離し、ちょっと捨てる、とはならない。
言い換えれば、「とりあえず」も、「せっかく」も、「なんとなく」も、そして「ちょっと」も、「つい」となる。
つまり、私たちは「つい、つい」というぼやけた思考で、つい、多くのモノたちを家に招き入れ、つい、それらの長逗留を許す。そうやって、いつの間にか、住まいがモノたちの集積場となる。そうか、これは「いつの間にか」ではなく、「たちまち」なのかもしれない。
それが証拠に、私が取材で訪れた家庭は、築1年、引っ越して3年という短期間にもかかわらず、どの部屋も無用の長物となったモノでいっぱいの有様となっているのだから。
ところで、最近、私はこんな言葉を知った。
経路依存性<Path dependence>
「あらゆる状況において、人や組織がとる決断は、(過去の状況と現在の状況は現段階では全く無関係であったとしても)過去にその人や組織が選択した決断によって制約を受ける」という経済理論、政治理論。
(参考:https://healthpolicyhealthecon.com/2014/09/07/path-dependence/)
なるほど、私たちは過去からの「もったいない」の制約をずっと受けながら、余計なモノを溜め込む決断を無意識に繰り返してきたのかと。
つまり、私たちの住まいの状態は「経路依存性症候群」に罹患している結果ということですね、軽度、重症、短期、長期……と、程度は様々であるにしても。