久野のあし音 | 源行近のブログ

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山陰の戦国時代を郷土史レベルで研究しています。主に人物や城跡が中心です。


図書館で借りてきた本から中世について書かれたところを抜粋

久野郷

源頼朝が寿永四年(1185)平家一門を壇の浦に葬り、建久三年(1192)鎌倉に幕府を開いた。この時より武士によって日本の政治がとり行われるようになった武家政治の始まりである。
そして源平の戦に勲功のあった武士には各々領地を与えたので地方の政治は守護、地頭にゆだねられるようになった。
地頭本来の任務は領地の管理、年貢の徴収、訴訟の決裁と、源義経、行家、平家にゆかりのある者を追捕するという目的もあったらしいが、次第に管理地を私有化し農民に対する搾取横暴も激しく、「泣く子と地頭には勝てぬ」と言われておそれられていた。
久野の地名が誌上にあらわれるのは、建長元年(1149)六月の「出雲大社杵築社造営注進状」のなかの「流鏑馬役勤仕十一番三刀屋合う飯石郡久野郷」であり、これより二十三年後、文永八年の「千家文書」の「相撲舞役勤仕十二番久野郷四町八反半 地頭中郡太郎六郎」である。
中郡太郎は久野郷から出雲大社三月会(春の大祭)の舞姫を徴収する義務もあったらしい。
「郷」とは今日での町か村にあたり大原郡誌に記載されたところによると久野郷は天平の七〇〇年頃から延喜の九〇〇年頃まで独立した一つの郷ではなかったが、今日では領主の関係でまとまった郷名で呼ばれるようになった。この地は後世の久野郷のにあたる。

この郷は佐藤二郎左衛門の領有地であったが観応二年九月戦功によって佐々木秀綱の本領大庭御厨の替地として此郷を充てられた、とある。
文永八年の「千家文書」は室町幕府が、守護佐々木泰清と国司朝山昌綱に命じて出雲国内の公領荘園領を調査させ杵築大社の三月会に奉仕する相撲、舞の課役を割付したものである。
これには当時の「領地」の所在地、面積、地頭名などが列挙され二〇番に分けて一年に一番ずつ課役させている。この地方では佐々木一族の荘園の面積がとびぬけて多く次いで阿用の土屋氏のようであった。
佐々木秀綱は源頼朝が鎌倉に幕府をひらいたとき出雲守護に指名した高綱の子孫で先祖は平安時代初期の宇多天皇の流れをくむ宇多源氏で、この佐々木氏は室町時代になってから高綱の六代目にあたる、高秀の長男高詮が京極姓を名乗り三男高久が近江国尼子郷に住んでいたので尼子姓を名乗るようになったと書にある。