旧碓氷郡松井田町・霧積山女性殺人事件・その9(「最後の写真」) | 雑感

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たまに更新。ご覧いただきありがとうございます。(ごく稀にピグとも申請をいただくことがあるのですが、当方ピグはしておりません。申請お受けできず本当にすみません)

霧積温泉殺人事件写真イメージ1

(遺留品のカメラに残されていた「最後の写真」イメージ、再掲)

 


※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※



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「その8」の最後で、「続きは追記で」と言っていたのですが、

その「続き」を書いてみたら、「追記」の形でアップするにしては長くなりすぎてしまい、


何万字だかの字数制限のことなどもあり、心配なので(多分大丈夫だとは思うのですが)、

「その9」として、新たな記事をアップさせていただきます。


さて「その8」では、


「Kさんの遺留品のカメラに残されていた5コマ」


について触れたのですが、

実はその5コマのうち、正真正銘最後の一枚---つまり5コマ目---が、

冒頭に再掲したようなたぐいの、心霊写真風の一枚だった・・・


ということが事実として語られていて、

確かにそれは、人々の妄想を掻き立てる逸話ではあり、

この事件を覆う一種オカルトめいた雰囲気の源泉にもなってきた、と思うのですが、


では一体、その---おそらくはネット上の誰も見たことがない---心霊風の写真を

「最後の一枚(5コマ目)」としたのは、何をソースに、

何をネタ元にして、それが事実として語られてきたのか、


そこに目を向けてみるとすると、

実のところそれは、当時の新聞記事等にネタ元があるのではなく、

このブログでも時々引用させていただいている、2003年11月発行の、


『迷宮入り!?未解決殺人事件の真相』(宝島社)


この本がその逸話のネタ元だ、ということで間違いはなく、

ではこの中で、一体どういう経緯でその心霊写真風の一枚が


「正真正銘の、最後の一枚(5コマ目)」


として特定されるに至ったのか、

そのあたりについて触れてみるとすると、


まずこの本の共著者の一人、

フリーライターの桐島卓氏が、この霧積の事件をレポートされるわけですが、

(本は2003年11月発行、記事内容からして、取材時期も同年かと推測)


その中で桐島氏は、

「被害者Kさんの遺留品のカメラには、撮影済みの5コマが残されていた」

という事実にまず触れ、

(その事実については、当時、上毛新聞でも取り上げられた)


霧積温泉殺人事件上毛新聞5コマ
(1972年<昭和47>8月19日付、上毛新聞より)


その5コマのうち、


「最初の2コマ(1~2コマ目)は、Kさんが金湯館をチェックアウトする1時間ほど前に、旅館の水車を背景に、アルバイトの学生(当時21)に頼んでシャッターを押してもらったものである」


ということを紹介し、

(この”最初の2コマは旅館の水車前でバイトの学生に撮ってもらったもの”ということについては、当時、新聞等で記事化されたのでしょうか? それについて、当方は桐島氏のレポート以外のソースを、実は知りません。桐島氏はより詳細な当時の新聞記事検索であるとか、その他の独自取材によって、この事実を掴んだのかもしれません。)


霧積温泉殺人事件最初の2コマ

(水車を背景に、最初の2コマのイメージ)


そのうえで、例の「石田良男」なる人物の話を紹介し、(石田某については「その8」を参照ください)

その中で次のような記述、すなわち、


「本人(石田良男)の説明によれば、8月13日、友人二人と車で釣りにやってきたという。横川で立ち寄ったドライブインで、釣りの好ポイントをたずねて霧積川がいいと教えられた。その足で霧積温泉に直行し、新館の駐車場に車を置き、そこから2、3分ほど上がった人口の滝のそばで釣りを始めた。そこへ新聞に出ていた女性(Kさん)が声をかけてきた。写真を撮って欲しいというのでカメラは苦手だと断ったが、簡単だというので、言われたとおり、1回だけシャッターを切ってあげた。時間は正確に覚えていないが、たぶん正午すぎだった」

( )内はブログ筆者による補足、それ以外は原文ママ


という記述をされた上で、


「忍の池えん堤前で撮られた写真は、一枚のみ」


つまり、「その8」でも引用した次の画像でいえば(白黒部分)、


霧積温泉殺人事件写真イメージ3


「Aの写真とBの写真とは同じものである」

(よって、忍の池えん堤前で撮られた写真は、一枚のみである)


という認識を前提として、桐島氏は取材を進めていかれたと。


しかもその認識に加えて、


「忍の池えん堤前での1枚こそが5コマ目、すなわち正真正銘”最後の一枚”だ」


という認識を持って取材を進めておられた、

とのことなのですが、


霧積温泉殺人事件125コマ

(レポートによると、桐島氏の取材開始当初の5コマのイメージは、上のように、水車を背景にした最初の2コマと、忍の池えん堤前での5コマ目、3~4コマ目が不明、というものだった)


取材を進める中で、

この写真の並び(順番)についての認識を変える証言が得られたと。


その証言というのは、桐島氏が金湯館に赴き、

そこで3代目のご主人であるS氏に取材をしたときに得られたもので、


ネット情報によれば

S氏は今年86歳で、今でもお元気でいらっしゃるものと推測されるのですが、

ともあれ、そのインタビュー部分を書き起こしてみると、(以下、太字部分)


「話題が、Kさんの最後の写真に移った。(するとS氏は次のように答えた)

『ええ、私らも刑事に写真を見せられましたよ。”Sさん、ちょっとこの写真の場所を確認してくれないか”と言って(写真を)持ってきました。被害者が最後に写っていた写真だと聞きましたあれは確か金洞の滝の前で撮った写真でした

(金洞の滝とは)初めて聞く名称である。確か新聞報道では、Kさんの最後の写真は<忍の池の滝前>となっていたはずである。

当時の新聞資料を広げながらもう一度ご主人(S氏)に確かめた。

(するとS氏曰く)『いや、忍の池じゃなかった。あれは間違いなく金洞の滝でした。当時はまだ木の橋でしたが、滝をバックに女性が橋にもたれて、カメラ位置は橋の反対側から撮っていたはずです。確か警察の検証で、撮影した人物は身長170数センチとか言ってましたね』

この事実は後の取材でも裏付けられた。

事件当日の朝、水車前でKさんの記念写真を撮ってあげたアルバイトの学生・Hさん<当時21歳、仮名>からも、同じ答えが返ってきた。

『僕もその写真は見ました。ええ、間違いなく金洞の滝だったと思います

これで少なくとも、忍の池が最後の写真ではなかったことがはっきりした。

確かに当時の新聞記事をもう一度よく読んでみると、どこにも忍の池での写真が最後の一枚とは書いてない。<殺される直前>とキャプションが付いているだけだ。」

( )内はブログ筆者による補足、それ以外は原文ママ


とのことで、

とりあえず、上の会話に「金洞の滝」というのが出てくるので、

その写真(ストリートビューより)や、地図上での位置を示してみると、


霧積温泉殺人事件金洞の滝

(ストリートビューで見る金洞の滝を背景として、上記S氏の証言による再現イメージ。残された5コマの中には、このような一枚が存在したという。)


霧積温泉殺人事件_ホイホイ坂周辺

(画像中央より向かってやや右下、の箇所が金洞の滝。群馬県道56号沿い、橋の上からよく見える。)


こういうことになるのですが、

いずれにしても金湯館のご主人から、

「被害者が最後に写っていた写真だと聞きました。あれは確か金洞の滝の前で撮った写真でした」

という証言を得たことにより、

桐島氏が当初抱いていた「ラスト5コマの写真の並び」についての認識は、次のようなもの、

すなわち、


霧積温泉殺人事件1235コマ
(最初の2コマが水車を背景としたもの、3または4コマ目が忍の池えん堤前での一枚、5コマ目が金洞の滝を背景とした一枚。)


このように改められたらしく、

その認識変更のシーンを(先の引用と重複しますが)原文のまま書き出してみると、


「これで少なくとも、忍の池が最後の写真ではなかったことがはっきりした。

確かに当時の新聞記事をもう一度よく読んでみると、どこにも忍の池での写真が最後の一枚とは書いていない。<殺される直前>とキャプションが付いているだけだ


ということなのですが、

写真の並びについての話は、これで終わりではなかったと。


桐島氏によると、その後さらに、Kさんの人となりを探るべく、

Kさんの生まれ育った群馬県伊勢崎市での取材を行ったとのことで、


まずは、昭和町にある(あった)Kさんの実家を訪ねてみると、

そこにはすでに古い建物があるのみで、人の気配は皆無であったものの、


Kさんを知る人々を探し出し、

そこで、写真の並びについての認識をくつがえす、新たな証言が得られたとのことで、


その証言を行ったのは、

事件当時Kさん宅の2軒隣に住んでいた奥さん(Uさん、当時39)であり、


このUさんは、「その2」でも紹介したように、

本来Kさんと一緒に霧積温泉に旅行に行くはずだった人であり、


また、山深い作業小屋でKさんの遺体が発見されたときに

アマチュア無線による第一報を飛ばした左官業N氏の妻でもある人・・・

ということは、その無線連絡を受信した中学生(当時15)の母親でもある人なのですが、

(遺体発見現場からの無線連絡の件については、「その6」を参照下さい。ちなみに左官業N氏については、この取材の12年前に他界されていたとのこと。)


そのUさんが、桐島氏に対し、

Kさんが一人で霧積温泉に赴くことになった経緯を説明し、その中で図らずも、

Kさんが最後に写っているという、

ある一枚の写真についての証言が飛び出したと。


その時のUさんの証言を、本文から書き出してみると、

(以下は「その8」の冒頭でも引用しましたが)


「警察からKちゃんの持ち物が全部戻されたときに、あたしも(それらをKさん宅で)見せてもらったんです。その中にあの娘(Kさん)が最後に写っているという写真があったんです。それが気味悪いのよ。笹やぶの中にボォーッと立ってるんだけど。脚の途中から白い煙だか雲みたいなものが出ていて、下のほうが切れてるの。それに表情も生気がなくて、まるで抜け殻みたいだった・・・」

( )内はブログ筆者による補足、それ以外は原文ママ


というものだったらしいのですが、

ともかくもUさんのこの証言を受けて、写真の並びについての桐島氏の認識は、


霧積温泉殺人事件12345コマ


最終的にこの通りに確定したらしく、

結局、この認識に基づいて、当該事件についてのレポートを執筆され、

それが掲載されたのが、2003年11月発行の


『迷宮入り!?未解決殺人事件の真相』(宝島社)


であり、この本をネタ元として、


霧積温泉殺人事件写真イメージ1


こうしたイメージの、心霊写真風の一枚こそが


Kさんの生前に撮られた最後の写真であると、


これこそが、遺留品のカメラに残されていた5コマのうち、


「正真正銘、最後の一枚(つまり5コマ目)である」


ということが語られるようになった・・・


ということで、間違いはないものと思われます。



----------



さて、上のような経緯はともかくとして、

本当にそれが最後の写真(5コマ目)であったのかどうか、


ということを考えてみると、もしかすると、違う可能性があるかもしれない・・・

と思うのは、つまりこの説(5コマ目=心霊写真風の一枚)によると、5コマの並びは、


霧積温泉殺人事件12345コマ


こうなるわけで、さらにこの説に基づいて、それぞれの撮影場所を図示すると、


霧積温泉殺人事件_写真


こうなるわけですが、

見ての通り、5コマがこの並びになるためには、


「忍の池えん堤前で撮られた写真は、一枚(一種類)のみ」


と設定する必要があるわけです。


では本当に、忍の池えん堤前での写真は、一枚(一種類)のみだったのかどうか、


この点例えば、当時の上毛新聞に載った以下のAとBの写真を見比べてみると(再掲)、


霧積温泉殺人事件写真イメージ3


一見してどちらも不鮮明で判別が難しく、

似ているような似てないような、よくわからない状態ではあるのですが、


Bの写真は手前に妙な黒いものが映り込んでおり、

これは何らかの人為的なイレギュラーだったとしても、


背景の水の滑り落ちる部分とか、飛沫の様子、

水の波紋の様子などには、単に、トーンやコントラスト、

彩度、明るさなどの違いでは片づけられない相違があるように(私には)思われるのであり、


また、そもそも上の写真(白黒の部分)は、

上毛新聞の1972年8月20日付11面からの、そのまんまの切り抜きであることを思えば、


新聞社が全く同じ写真を(縮尺だけ少し変えて)縦に二つ並べて掲載する、というのも妙な話で、

そこはやはり、「AとBとが別々の写真だからこそ、二つ並べて掲載した」、


と見るほうが、常識的ではあるのかなと。

(ちなみに、このAとBの縦二枚の白黒写真に付せられているキャプションは、「問題の写真は東京都内の石田さんが『わたしが撮影した』と名乗り出た。捜査本部では実測捜査から撮影は午後1時半前後と断定した ①」というもの)


さらに留意すべきは、上のAとBの写真が掲載された時の「経緯」であって、

上毛新聞はまず、8月19日付(土曜日、7面)でAの写真のみを掲載し、


「誰が撮ったこの写真 ナゾ秘めた五コマ」


という見出しを掲げ、その記事の中で、

「遺留品のカメラには撮影済みの5コマが残されていた」ということを紹介し、

その上で、Aの写真の横に、


「殺害される直前のKさんの記念撮影 - 泊まった金湯館からの道筋にある忍の池の滝前で」


というキャプションを付したわけです。


すると、その記事を見たという自称・世田谷区下北沢の修理工・石田良男(22)なる人物が、

「その忍の池えん堤前の写真を撮ったのは私だ」

と、上毛新聞に電話で名乗り出てきたわけですが、

そのことを報じる上毛新聞の記事(8月20日付)を引用してみると(先の引用と重複しますが)、


上毛新聞 昭和47年(1972)8月20日(日) 11面

最後の写真”は私が撮った 東京の釣り師名乗り きょう、くわしい状況を聞く

「霧積山殺人事件捜査本部は、被害者の伊勢崎市昭和町、ガソリンスタンド店員Kさん(24)のカメラから現像された”最後の写真”撮影者の割り出しを急いでいたが、19日夜、Kさんに頼まれてシャッターを押した-と都内に住む人が電話で名乗り出た。

(中略)捜査本部では、きょう20日、この人から当時の状況をくわしく聞く方針。この人は東京都世田谷区下北沢4の16、富士見台マンション内、修理工・石田良男さん(22)で、同日(19日)午後8時半ごろ、上毛新聞社に電話で名乗り出たもの。

石田さんの話によると、石田さんは13日車で友だちと二人で群馬県に釣りに来た。

碓氷郡松井田町横川のドライブイン”荻野屋”で霧積川がいいと教えられ、霧積温泉に行き、同温泉の旅館の駐車場に車を置いて、忍の池の滝付近で釣りをしていた。

そこへKさんと思われる女性がきて、”ちょっとすいません、シャッターを切ってください”と声をかけた。
石田さんは”カメラには弱いので”といったん断ると、女性は”シャッターを押すだけですから・・・”というので、2回シャッターを切ったという。

そこで別れた。時間ははっきりしないが昼過ぎだったと石田さんはいっている。(後略)」


というものであり、

上毛新聞はこの記事(「2回シャッターを切った」という文言あり)に添える形で、先のAとBの2枚の写真を掲載した、というわけで、流れとしては、


「8月19日付で、Aの写真のみを掲載」

   ↓

「それを見た東京の石田某から、19日の20時半ごろ、上毛新聞に電話で名乗り」

   ↓

「20日付で、石田某の”2回シャッターを切った”という証言とともに、AとBの2枚の写真を掲載」


ということになるのであり、


霧積温泉殺人事件_上毛新聞8月19_8月20日

(真ん中のピンク縦線を挟んで、向かって左側が1972年8月19日付、右側が翌8月20日付。画像のサイズ制限の関係上、赤枠で囲んである部分で文字が小さすぎて見えにくくなっている箇所がありますが、その部分は、19日付のそれが「五コマをとらえていた」、20日付のそれが「”最後の写真”」というもの)


この経緯を見る限りでも、少なくとも上毛新聞的には

「AとBは、別々の写真である」

と認識していたのではないか(つまり忍の池えん堤前での写真は、2種類ある)、

ということが想像されてくるのですが、


上の経緯が、桐島氏によるレポートの中では、次のように描写されるわけです。


「地元の上毛新聞では8月19日(土曜日)付けの新聞に<誰が撮ったこの写真、ナゾを秘めた5コマ>と題した記事を載せた。
すると早速、”この写真は私が撮った”と同新聞社に名乗り出る男性が現れたのである。
電話が入ったのは、8月20日のことである。この男性は自らを石田良男と名乗った。年齢は22歳(当時)、職業は修理工、住所は東京都世田谷区北沢4の16、富士見台マンション内ということだった。

本人の説明によれば、8月13日、友人二人と車で釣りにやってきたという。
横川で立ち寄ったドライブインで、釣りの好ポイントをたずねて霧積川がいいと教えられた。
その足で霧積温泉に直行し、新館の駐車場に車を置き、そこから2、3分ほど上がった人口の滝のそばで釣りを始めた。
そこへ新聞に出ていた女性が声をかけてきた。写真を撮って欲しいというのでカメラは苦手だと断ったが、簡単だというので、言われたとおり、1回だけシャッターを切ってあげた
時間は正確に覚えていないが、たぶん正午すぎだった」(原文ママ)


上毛新聞の記事と桐島氏のレポートとの相違点は、


1. 上毛新聞では、「石田良男」が電話をかけてきた日時は「8月19日の午後8時半ごろ」としているが、桐島氏のレポートでは、それは「8月20日のことである」とされている。


2. 上毛新聞では、「石田良男」はKさんに頼まれて「2回シャッターを切った」としているが、桐島氏のレポートによると、石田良男はKさんに頼まれて「1回だけシャッターを切ってあげた」


1はともかくとして2の相違は重要と思われ、

桐島氏によると、石田某がシャッターを切った回数は「1回」とのことで、

この立場をとる氏は、その後、


① 「忍の池えん堤前での写真は、1種類のみ」

② 「忍の池えん堤前での一枚が、最後の写真(5コマ目)だ」


という認識をもって霧積に赴き、金湯館の3代目ご主人S氏に取材をされ、

そこでS氏から、


「(警察が)”ちょっとこの写真の場所を確認してくれないか”と言って(写真を)持ってきました。被害者が最後に写っていた写真だと聞きました。あれは確か金洞の滝の前で撮った写真でした」(原文ママ)


という証言を聞き、これで桐島氏は②の認識を変更されたとのことで、

その認識変更のシーンは、


「これで少なくとも、忍の池が最後の写真ではなかったことがはっきりした。確かに当時の新聞記事をもう一度よく読んでみると、どこにも忍の池での写真が最後の一枚とは書いてない<殺される直前>とキャプションが付いているだけだ。」(原文ママ)


とのことで、

確かに、上毛新聞が8月19日付でAの写真のみを掲載した時には、その写真の横に、


殺害される直前のKさんの記念撮影 - 泊まった金湯館からの道筋にある忍の池の滝前で」(原文ママ)


というキャプションを付していて、

桐島氏が言及された「<殺される直前>というキャプションが付いているだけだ」というのはこれを指すものと思うのですが、しかし、その翌日(8月20日)に上毛新聞がAとBの二つの写真を掲載した時の記事を見てみると(以下、再引用)、


上毛新聞 昭和47年(1972)8月20日(日) 11面

最後の写真”は私が撮った 東京の釣り師名乗り きょう、くわしい状況を聞く

「霧積山殺人事件捜査本部は、被害者の伊勢崎市昭和町、ガソリンスタンド店員Kさん(24)のカメラから現像された”最後の写真”撮影者の割り出しを急いでいたが、19日夜、Kさんに頼まれてシャッターを押した-と都内に住む人が電話で名乗り出た。」


霧積温泉殺人事件_最後の写真


となっており、これを見る限り、

確かに上毛新聞は忍の池えん堤前での写真を「最後の一枚」とは書いていないものの、「最後の写真」とは書いているのであり、少なくとも、

「<殺される直前>というキャプションが付いているだけ」

というわけでもないように思いますし、


また、「”最後の一枚”とは言っていない」という点では

実は例の「心霊風の写真 = 5コマ目」説の根拠となった次の証言にしても同じことであって、


「警察からKちゃんの持ち物が全部戻されたときに、あたしも見せてもらったんです。その中にあの娘が最後に写っているという写真があったんです。それが気味悪いのよ。笹やぶの中にボォーッと立ってるんだけど。脚の途中から白い煙だか雲みたいなものが出ていて、下のほうが切れてるの。それに表情も生気がなくて、まるで抜け殻みたいだった・・・」(原文ママ)


この証言にはどこにも「心霊写真風の一枚 = 最後の一枚(5コマ目)」とは書かれておらず、

そこには、「あの娘が最後に写っているという写真」という、見ようによっては広く解釈できそうな文言が書かれているのみであり(さらに言えば、証言者自身の事実誤認、錯誤の問題も無くはないかと)、


そうである以上、この証言もまた、「Kさんの生前最後に撮られた写真(5コマ目)が心霊写真風のそれだった」とする、確たる証拠とまでは言えないのではないか、

とは思うわけです。


長々と書いてしまいましたが、

長々ついでにもう少し書かせていただくとすれば、

レポートの中には、「殺害現場(作業小屋)の位置」について次のような記述があり、


霧積ダムをすぎ長野新幹線の安中榛名・軽井沢間の鉄橋下を通過して800メートルほど進むと、
まもなく殺害現場となった小屋のあった場所についた
。道の右崖下の狭い空間である」(P197)


その殺害現場(作業小屋)の位置は、次の図に「X」で示されているのですが、(P190)


霧積温泉殺人事件_引用地図


実際の殺害現場(作業小屋のあった場所)は、図中のスカイブルーの点の箇所にあり、

それは、北陸新幹線の安中榛名・軽井沢間の鉄橋下から南側へ約650メートルの地点であって、

「X」の位置からは約1.5キロ離れた、新幹線の鉄橋を挟んで反対側の位置にあるのであり、


さらに同レポートでは、「金洞の滝」の位置についても次のように図示されているのですが、(P205)


霧積温泉殺人事件_引用地図3


実際の金洞の滝は、図示された位置よりも約1.1キロ上流(スカイブルーの丸の位置)にある、

ということで(図の右下に「X」で示された殺害現場の位置も事実誤認であり、実際の殺害現場---作業小屋のあった場所---は「X」の位置より約1.5キロ下流にある)、


これは、非常に参考にさせていただいたレポートにおける些細な間違えをどうこう言うのではなく、

プロのライターさんでも、時としてこういう事実誤認はあり得る、ということの一例として見ていただければと思うのですが、


ともかくも、この手の事実誤認が起こりうる以上、

「忍の池えん堤前での写真 = 1種類のみ」とした記述にも事実誤認があったかもしれず、

さらに言えば、それ---忍の池えん堤前での写真---は「2種類」あったかもしれない、

と思われてくるのであり(私の目の錯覚かもしれませんが)、


仮にそうだとすれば、この事件にまつわる心霊写真の逸話は、

上記レポートにおける、ある一つの事実誤認に端を発した誤解の可能性がある、

という風には思うのであり、


だとすれば、この5コマの真実はどうだったのか、

ということが気になるのですが、


もし仮に、「忍の池えん堤前での写真 = 2種類」という立場をとり、

さらに、「金洞の滝」に関する金湯館3代目ご主人S氏の証言を真とすれば、


霧積温泉殺人事件金洞の滝
(S氏は、「金洞の滝」をバックにKさんが橋にもたれかかるこのイメージの写真を、「被害者が最後に写っていた写真」として警察から見せられたという)


実際の5コマは、上のような写真を最後の一枚(5コマ目)とする、


霧積温泉殺人事件_5コマ並び


こういった並びのものであったのかもしれない、


などと思ったりもしますが、


どんなもんでしょうか。