ずいぶんご無沙汰していました。

 

暑い日が続きますがみなさまお元気ですか。

 

 

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なぜか友人からもらったスターウォーズお面。目の部分がくりぬかれている。

オビワンケノービになったうちの5歳児w イケメンw

 

 

 

 

 

私を写す鏡の役割をしてくださっているみなさん。

 

 

あなたたちの一挙手一投足により生じる私の感情を見つめることで

 

 

はじめて、

 

 

私は、自分の制限を知り、当たり前を知り、どのように自分を認識しているのかを知ることができるのです。

 

 

 

あなたたちがいなければ私は、自分がどのような制限のもと暮らしているのかわからんちんなままなのです。

 

 

 

 

たとえば誰かが私のセッションに来ず、ほかの誰かのもとへ悩み相談へいく。

 

 

すると私は、なぜあなたは私のところにきてはくれないのだろうかともやもやする。

 

 

 

そのとき私は、

 

「私には人が相談に来てくれるような価値がない」と思ったり、

 

「私は○○さんより劣っている」と思ったり、

 

「あなたは恩知らずのひどい人だ」と思ったりするかもしれない。

 

 

 

そしてそれはすべて、私に悪い感情がわいちゃって、私ってひどいやつ、ってことではぜんぜんなくて、

 

 

ただ単に、

 

 

自分が何を当たり前と思っていて、何に制限をかけているのか、を示してくれる格好の教材なのだ。

 

 

 

 

たとえば、さっきの3つの例それぞれにおいて

 

 

「人が相談したくなるような人の方が価値がある」

 

「私は人を優っている、劣っているといった物差しで測る」

=「私は自分の中の部分部分を、優っている、劣っているという物差しで測っている」

 

「人は恩を受けたら、返さなくてないけない」

 

 

 

という、当たり前(思い込み)が、私の中にある、ということがわかる。

 

 

 

だから、その自分の当たり前が適用されないことで、いらいらやモヤモヤが起きてくるってわけ。

 

 

そして、その学びは、たとえ私の理性が意識できないとしても、

 

実は私自身が、今、学びたい!と思ったから起きた現象で、

 

 

 

 

そして、そんな当たり前は、

 

 

もう用済みだよ、私にはあらゆる制限なんかないんだよ

 

 

 

ってことがわかると

 

 

 

 

そのような現象は必要なくなるから

 

もう起きないってことなのだ。

 

 

 

 

逆に、学び終わるまではなんどでも同じ状況は出現する。

 

 

 

 

すべては私の投影なんだな。

 

 

 

 

私がしなくてはいけないこと、してはいけないこと、そんなものはありゃしない。

 

私が感じてよいこと、感じてはだめなこと、そんなものもありゃしない。

 

 

 

 

すべては私の投影であり、

 

私はあらゆることを感じるために、体験するために、

 

地球というもの、私のこの世界を作ったのだからね。

 

 

 

 

 

そして、二極がある、対極があるということで成立している、今の地球は

 

 

結局のところこっちの極とあっちの極のどちらでもいいのだ。

 

どっちでも同じことなのだ。

 

それはコインの裏と表。

 

同じものを違う表現で表しているだけなのだ。

 

だからそんなことにこだわるのは無意味なことなのだ。

 

 

 

 

好きがあるから、嫌いがあるのだ。

 

 

 

苦しみがあるから、喜びがあるのだ。

 

 

 

病があるから、健康があるのだ。

 

 

 

光があるから闇があるのだ。

 

 

 

どっちも同じ物事の両極の側面なんだ。

どっちがでたっていいんだよ。

それは同じことだから。

 

 

 

 

極があるということがあまりに当たり前で、

片方の極を体験してからでないと、反対の極を感じられないのが人間。

 

 

ずーーーーーっと光の中にいたら、

 

 

それが光の中だってどうしてわかるだろう?

 

 

 

影という存在があり、影がないから明るい、と思う。

 

明かりがないから暗いと思う。

 

 

 

 

そんなわけで、

 

私が、幸せになりたい!って思うと、

 

 

幸せを充分に感じるために、まず不幸なことが起きてくるのだ。

 

 

 

そうしいないと幸せがわからないから。

 

 

 

いつでもつねに最大限幸せだと、幸せに気づかないから。

 

 

 

空気があるときに空気の存在に気づかないように。

 

健康な時に、健康の快適さに気づかないように。

 

 

 

それを失って初めて、あることの幸せがわかる。

 

 

 

 

 

だから、何かを願うと、まずはそれがない!という状態を固定化する。

 

 

そして一生懸命願いに向けて苦難をくぐり抜け、

 

 

やっとゴーーール!

 

 

 

 

そしてしばしそれを楽しんだらまたそれに飽きて、

 

次の願いをする。

 

 

そしてまた、願いの達成の快楽を味わうために、まず、それがないことが固定化され、、、、、

 

 

という具合に、

 

人間は、気が遠くなるくらいの過去生からずーーーっとそれをしてきたんだね。

 

 

 

 

 

 

何かを願ったり、理想を追いかけたりする、

 

 

それはアトラクションとして楽しいことだ。

 

 

ジェットコースターみたいに。

 

 

いいも悪いもない。

 

 

 

 

 

そして、いい加減それにも飽きてきた時に、

 

 

 

何も願わないこと。

 

ただありのままでいること。

 

あらゆる自分をただ見つめ、気づきつづけ、

 

 

それが今まで知らなかったエネルギーの使い方になっていくことを体感すること。

 

 

ものごとを起こしていくのではなく、

 

 

ただあらゆることが起きていくことを信頼して

 

 

 

安らいでいられる次元へシフトしていく。

 

 

 

それが思い出すってことであり、

 

 

すべて人は100%すばらしいってことであり、

 

 

すべてはひとつだってことであり、

 

 

源に還っていくってことであり、

 

 

涅槃に至るってこと。

 

 

 

極の極性に左右されなくなる。

 

それはどちらでも同じことになる。

 

 

 

 

 

びっくり仰天です。