政治家や行政機関にいる公務員やNPO法人及びそれに組する人で、主義主張が多文化共生主義者やグローバリストという人たちは、外国人との共生を日本人に、強要しますが、なぜ私たちに共生の「努力」が求められ、「譲歩」が求められるのか、「負担」「犠牲」その説明をしてもらったことがありませんし、その説明をしようにも、そんな義務や責任や道理など皆無なので根拠をあげることは出来ませんね。だからこそ成功事例が存在しない「多文化共生」を「多文化強制」とも揶揄されて批判の的にもなりますね。

 

こちらはイスラム教が日本人の考える「宗教」ではないことが、わかりやすく書かれています。

興味のある方はどうぞ!↓

BLOGOS記事 fujipon2018年09月14日 【読書感想】イスラム教の論理 より一部抜粋

 

イスラム教徒にとっては国境も国民国家も民主主義もグローバル化も、所詮は「人間の産物」にすぎません。しかしイスラム教はそうではありません。イスラム教徒にとってのイスラム教は、神が人間に恩恵として与えたものです。神の恩恵であるイスラム教が、人間の産物である民主主義に優越するのは、彼らにとっては「当然のこと」です。 

 

世界には様々な価値観を持つ人がいます。その中には私たちにとって好ましく、憧れの対象となるような人々もいれば、全く関わりたくないような人々もいます。私たちは一般に、それを「多様性」という言葉で肯定的に受け入れます。

しかし世界にはこの「多様性」を否定的に捉え、世界はひとつの価値観に収斂されなければならないと考える人々もいます。 

イスラム教という宗教は後者に属します。イスラム教徒ではない人にとってあまり嬉しいことではありませんが、それが事実です。イスラム教徒は従来の国家や地域の枠組みを越えた地球規模の拡大を目指すという意味では確かにグローバル化を志向しますが、それは私たちの考えるグローバル化とは全く異なるものなのです。

 

私はイスラム教の研究者で、イスラム教について大学で教えたり、メディアで解説したり、ものを書いたりするのが仕事ですが、それらを続ける中ではっきりとわかったことがひとつあります。それは、日本人のイスラム教に対するアレルギーは非常に強い、ということです。 

日本人の中にはイスラム教について単に知らないとか関心がないというよりは、それについては知りたくない、積極的に遠ざけたいという反応を示す人が少なくありません。

その理由のひとつは、イスラム教が日本人の考える宗教の枠組みの外にあるように感じるからかもしれません。日本人は概ね、宗教というのは個人の心の内面に関与し世界平和に貢献するものだと考える傾向にあります。 

しかしもし、宗教というのは個人の心の内面「だけ」に関与し世界の平和「だけ」に貢献するものだと規定してしまうと、個人の行動に関与し世界を戦いへと駆り立てるような宗教は「宗教ではない」ことになります。

イスラム教はまさしく信者の行動を規定し、イスラム教による世界征服を目的とする宗教ですから、日本人的感覚で見ると「そんなものは宗教とはいえない」「そんな宗教は不要である」、といったリアクションが直ちにひきおこされます。 

日本の中東イスラム研究者や日本人イスラム教徒らが「イスラム教は平和の宗教」と連呼する理由のひとつは、そう宣伝しないと日本人にはイスラム教が理解できないし、受け入れられないと考えているからです。しかしいくら日本人感覚にあわせてイスラム教をわかりやすいかたちに「改竄」しようとしても、イスラム教の真理は変わりません。

オーストリア:ブルカを被らず外出した妻を子供たちの眼前で刺し殺したイスラム原理主義トルコ移民!