去年の今頃は何をやっていただろうか。

思い出せないし


こないだ年明けて、今年も小雨頑張らなきゃと思ってたら

もう4月も半ば

きっとそう言っていたら半年過ぎて年末になる



早いってことは、楽しくて仕方がない証拠でもある



3月に自分の長い生活の一部を辞めて、新しい自分になろうとしている


前向きに、もうあとには戻れないと腹をくくって



最近「貴方はどのようになりたいのか」という質問に答える機会が何度もあり


あまり深く考えてこなかったけど


無意識に口から出るのは

「最終的に自分は表に出たり目立たなくてもいいから、何かを作り上げたり育てたりしたい」

というようなことでした。



子供の頃から、圧倒的な才能だったり天才の変人を多く見てきたせいか、ああいう人が1番になるべきだという気持ちが強い


私は、確かに少々は変わっていると思うけども、そう思うくらいには凡人な感性がある。


変人は自分のことを変だとは思っていないから。


ちょっと変だな、って思うことは要するにそれ以外は平凡なんだと思っている。



だから、私が良いなとか素敵だなとか楽しいと思ったことや人を前に出してあげたくなる。


それでその人が喜んだり新しいものを見たり、良い景色が見れたらなお嬉しい。


自分が良い思いをするためにはとんと頑張る気持ちが出ないけど

誰かが喜んでくれるためににだったらどこまでも頑張れる



見ようによっては、他人に責任を押し付けているように思われるかもしれないけど、それは違う

こうしたいと思うのは私の意志だ。

私が決めた道だ。

私の責任、私の人生だ。



私の自己満足かもしれない。



話を戻して

私は何かを作ったり育てたりしたいのだけど

それは物作りをしたいというのも無きにしも非ずだけど

どちらかというと”人の気持ちを作りたい”


という事だったりする


何かをやったり始めたりするときに、踏み出せない事がある。


恥ずかしいとか変かな?とか、周りの目が気になる事がある。


そういう踏み出せない一歩を踏み出すための後押しをしてあげられる人間になりたい。


一歩踏み出す気持ちを育ててあげられる人間になりたい。



”やってみなければわからない”

そう思える心が平凡な私の唯一非凡なところ


それは自分が変だとは思っていない変の天才な母親が授けて育ててくれた才能。

誰よりも変な人が目の前にいれば、ちょっとの変な事も気にならないんだ人ってのは

ゲンキンだね


なんでもやってみて実現したりしなかったり
しなかった事は次に活かしてまた新しい事をやってみる


可能性に生きる


年齢も、経験も、過去も

負い目を感じるのではなく
それを栄養や良きスパイスとして

楽しい未来を生み出して行く



子供の頃からそれをずっと見てきたおかげか、私には人よりその一歩が踏み出せる

気がしてる。


天才、努力の天才
と言われた母のように天才にはなれないけど
努力は次につながる事を私も知っている


踏み出せない気持ちもわかる。



努力は無駄にするも糧にするも自分次第。
気持ち。
考え方。



私はあの頃私の目の前で沢山の可能性を見せてくれた母のように



誰よりも変に、誰かの一歩の後押しができる人間になりたい。

私を見て、こんな人生もありなのか!
と一歩を踏み出してもらえるような

そんな人間になりたい。




そのためにはやっぱりそれ相当の場所までたどり着かなければならないと思う。


信頼、実績、経験

そして年齢


それがすべて揃ってこその”変”



だから私は先陣きって橋の真ん中を渡ろうと思う。



全ては周りのみんなに喜んでもらうために。

目の前の貴方に笑って欲しいと思う

私のために。



もう1年も三分の一が終る


時間が経つのは早い


変な人になるために頑張る。




そんな事を思った上京10年目
やっと、将来の目標が定まったなーと。

あとは頑張るだけ。




まるいきのこ

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