『信じる』という言葉は、

『希望を』信じる時に使うことが多いと思います。






『私は暗黒の未来を信じています。』

なんて『信じる』を使う人はいないですよね。







僕が沙漠に木を植えることや、海を綺麗にすることを通して、

自分の中に生まれた、大いなる(笑)面白い疑問。

それは、

『希望は増えたり減ったりするものなんだろうか?』

ということでした。







森が失われたとき、そこにあるのは絶望だけなんだろうか?

海が汚れてしまったとき、僕たちは悲しみしか見つけることが出来ないんだろうか?

(2008年ブラジルアマゾン)











その質問に大きなヒントをくれたのが、この写真だった。


場所は僕たちが木を植えている内モンゴル自治区のウランブハ沙漠。

40度以上にもなる夏場の灼熱の大地に根を降ろした小さな緑のいのち。

森が失われ、最後に待っている乾いた姿が『沙漠』だ。

一言で言えば、沙漠とは『絶望の象徴』みたいなもの。






けれど、この子はおしえてくれた。

『絶望か希望かは、どっちを見るかだけだよ』って。



この小さな緑のいのちを見たとき、そこにあるのは緑の未来への希望です。

乾いた沙漠の大地を見るとき、そこにあるのは未来への絶望感です。



でもこの2つの未来は、「ここに同時にある」んです。

※ここが最重要ポイントです。












これを言い換えると、

未来が絶望か希望かは決まっていなく、

『私はどちらの未来を信じることを選ぶか』です。

(写真は、緑を飲み込む沙漠?それとも沙漠を緑に変えようとしてる植物?)





『地球の未来は暗い』というとき、

『私は地球の暗い未来を信じることを選ぶ』ということです。



『地球の未来は明るい』というとき、

『私は地球の明るい未来を信じることを選ぶ』ということです。







未来は陰謀論や終末論が決めるということではないということです。

私が信じて見つめるもの、それがそのまま地球の未来です。

宇宙の子マサより



(Thank for photos:にっくん、funny!!平井慶佑さん、NPO法人MAKE THE HEAVEN)