このブログの第一部(2009年1月29日から2012年03月15日)は真輝の父親目線でした。
そして第二部は2012年03月23日から大阪の地でスタートしました。

第一部では、発達障害児を抱える父親として、我が子の成長記録とシツケや教育、または我が子の幼稚園での行動や問題や周りの協力について書いてきました。
そして第二部はそこから一歩踏み出し「発達障害児を抱える父親として」はモチロンのこと、我が子の将来の自立に向けた活動と、今同じく障害児を抱える父親たちとの新しいネットワークを築くための活動へと変化しました。

これは以前にも書きましたが、我が子が将来大人になったとき、我が子だけの療育が仮に成功したとしても、社会に対する発達障害への理解と協力がなければ、その土台で生きる我が子への幸せの価値観がなくなってしまうという思いから「父親たちによる交流を中心とした、障害児・者への社会環境へのアピール」という観点になりました。

我が子が実際に特別支援学校という、障害者だけが集まる学校教育の中で生活をしていると、やっぱり色々な提案事項が出てきます。
考えれば考えるほど、軽度な発達障害(知的延滞レベルが軽度)ほど、特別支援教育制度の拡充が必要であるということも気が付きました。

そこで、特別支援学校へ通う児童に対して希望すれば、本来の地域で通う普通小学校の教科書を持つことが出来るという制度に関しても、国と県と市に対して提言しました。
また障害者の就労や、工賃に関する様々な提案なども行いました。
そして、オヤジネットワークを拡充するために支援学校のオヤジの会にも参加しました。
またRun4uなどのグループへの参加もしました。

それ以外にも水面下では、いくつもの企画や立案を行っています。
しかし一人の障害児のオヤジという、我が子だけの療育や支援を考えることと、たくさんの障害児への療育や支援を考えることでは、天地雲泥の差があるということも分かりました。
自分の子どもへの理解を促すには、私が父としてシッカリと相手に伝えればそれで理解や協力は広まります。
しかし、その全体の底上げを各地域で行っていくとなると、相当のパワーと段取りが必要であることも分かりました。

しかし、乗りかかった船。
ここで諦めるわけにはいかない。
私が動いて行動した分、それは結果的に、我が子の将来の生活基盤になってくると思う。
第二部がスタートして5ヶ月。
これは3年後の真輝が小学校4年生になるまでの期間に、自分でやらなければいけない事はある程度決めているので、そこまでは確実に決めた道を進んでいきたいと思っています。

たくさんのオヤジたちがボクの味方をしてくれています。
たくさんのオヤジたちが協力して、ボクの活動を支えてくれています。
そんなオヤジたちの期待にも絶対に応えられるように、また新たな出会いもあり、それを1つ1つ大切にして実を結んでいきたいと思っています。