持論でありますが、自分が素直に感じた事、思った事をこのブログに残しておきたいので書きます。

自分自身がこの世の中から必要とされているか?を考えることはあまり大切な事ではない。
「必要とされている」と、自分の中で思い込む事だと思う。
例えば今、私が死んだとしてもこのブログを読んでいる人達の生活は、明日も変わらなく過ぎていくと思う。

人の人に対する影響というものは極々一部で本当に身近な人にしか心の中にはずっと残らない。
だから、人というのは他人にとって大きな影響を与えることが生まれてきた使命ではなく、自分が如何に人から必要とされているか?ということを自分の中で思い続けることが生命力の源だと感じる。

仮に他人から「お前の存在は無意味だ」と言われたとしても、それは数十億人も居る、極々一部の考え方であり、自分がそれでも必要とされていると思う心が、気持ちの変化とそれに伴う環境変化に気づかせてくれる。

問題にぶつかったときは逃げない勇気や根性も時には必要ではあるが、ただ自分の身を護る為にも逃げることは全く恥ではない。
逃げるのではなく、自分に適した環境を探してそこに身を移すという考えであれば、逃げたという解釈にはならなだろう。

だから私は息子に、辛い事があっても何とか環境を変えて、またそこで「お前は必要とされている」と言うことだけは伝え続けていきたい。
「お前は必要無い」と、仮に誰かに言われたとしても、私だけは息子に「オレにとってお前はずっと必要だよ」と言い続けていきたいと思っている。
これは障害の有無なく、息子が例え他人にバカにされたとしても、それは人を罵倒することで、自身に降りかかる火の粉を払っている、無責任な意見に過ぎず「お前はお前らしい生き方をみつけそこで自分らしい生き方を開花すれば良い」と教えてあげたい。

この教育で大切なことは、やはり一番身近に居て、生活を共にし、生まれたときから育てている親が、幼少からそう教えていく事が大切だと思う。
「いつまでも俺はお前が必要だよ」と教える。
仮に辛い事があって耐えられなく、結果的に我が子が傷付き辛い思いをした時があったとしても、そして例え障害が原因で私の伝える言葉の意味が理解出来なくても、必ず言い続けることで気持ちは伝わると信じている。

親はその必要性を持って我が子の防波堤となり、安穏の地として感じさせ、そして我が子には「世の中からの必要性」を持たせることが大切であると思う。

息子が障害者として生まれてきたのは必ず意味がある。必ず意味があるはず。無意味なことなんてない。そして無駄もない。
真輝は私に障害者の子どもを持つ父親を体験をさせてくれている。
今まで全く縁が無かったような人たちとの出会いも与えてくれている。
今まで考えつかなかったような新しい路を拓かせてくれている。

そしてこれから・・・。
もうこれからの時代は、例え障害者といえど、弱者受け身の考え方ではいつまても「社会のお荷物」とみられてしまうだろう。
でも私は息子に対して「お前は荷物なんかじゃない!お前は必要とされている」ということを教え、自分の生まれてきた意味を教えてあげたい。
これが私の障害を持つ我が子に伝える教育論。