真輝の「きょうだい」についての話題。3回目です。

出産するかどうかの最終決断は今年に入ってからも妻と話し合いは続きました。
基本的に産むことを前提に考えていきたいのですが、環境や時期について様々な負担があるので、一概に産むとも決断できない状況でした。

そんな時、年明け早々、おやじんくのメンバーと新年会を行いました。
そこでも事業計画を話す中で、他のメンバーが妻の出産時期である7月について予定を空白にしようという意見も出ました。
しかし自分の中では、それ自体が団体の予定に負担を掛けてしまうひとつの要因でもあり、できればスケジュール通りに進行していきたいと、色々と打合せしました。
役員のメンバーたちは「出産時や産まれたばかり時は、団体は俺たちで何とかする。協力できることは何でもするよ」と言ってくれました。

同じ障害児を抱えるオヤジたち、同志と話すと前向きな気持ちになってきます。
しかし、自分の置かれた現実と年齢などを考えると、なかなか決断することもできませんでした。

そして毎日と言っていいほど、妻とも幾多の話し合いを重ねました。
これ以上決断を伸ばすと仮に諦めた場合、妻の体にも大きな負担がかかる。いよいよ決断しなければならない時期が近づきました。
そして1月も中旬に近づく頃、最後に妻と話し合ったときには、妻は子どもを諦める決断もしたのです。
そこで私は最後に「では明日、最後は俺が決断する。その決断で良いか?」と伝えました。
妻は私の決断に従うということで私に託しました。

そして翌日、自分の決断を妻に伝えました。
「子どもを産んでください」
これだけを伝えました。妻は私の決断どうり「分かりました」とだけ言いました。

なぜ自分がこのネガティブな環境から一点して子どもを産むと決断したのか?
もし様々な環境で子どもを授かった方へ、少しでも私の考えが参考になればという思いで本音を書きます。

私はこの産むという決断まで相当考えました。そして様々なリスクやネガティブな事を考えました。当然、諦めることも何度も何度も考えました。いつまでの時期ならば妻に負担かからずに中絶できるのだろうか?ということも調査をしました。
もうこれ以上ないだろうという最悪の状態まで考えました。でもそれが結果的に「ネガティブは意見はすべて出尽くした。だから後はその事だけ覚悟できれば大丈夫」と判断したのです。
要するに私の環境におけるネガティブな考えはすべて出尽くしたのです。
「膿を出す」という事はこういうことなのかな?と思いました。
だから後は子どもが実際に産まれてきたとき、そしてその子が元気に育っていくことは、すべて私にとってプラスであり、幸せに感じることができると思ったのです。
下の子どもは私が45歳で産まれます。もしかしたらその子が成人するまで生きてやることもできないのでは?とも考えました。
その後の妻の負担も考えました。場合によっては子どもが2人とも障害者となって、妻が1人で子どもを育てる最悪のケースも考えました。

しかしそれも妻のそういう運命であり、私は私の運命としてできる限り、生きている限り一生懸命頑張れば良いと思ったのです。

この出産・子育てを決断をする時に、妻との結婚式で式に参加された、みんなの前で私が言ったことを思い出しました。
それは「私は妻を「幸せにします」と、ここでは断言できません。幸せかどうかは妻が考える事で、この結論は私が死ぬまで出ないと思います。だから私は最期のとき、妻に「幸せでした」と言って貰えるように一生懸命頑張ります。一生懸命頑張ることしか出来ません」と言いました。
だから私はできる限り一生懸命頑張ることだけです。
妻との18歳差の年齢差も、真輝の障害のことも、そして"おやじりんく"のことも、仕事のことも、友人関係もすべて一生懸命頑張るだけです。
だから7月に誕生する予定の子どもに対しても、一生懸命頑張るだけだと思ったのです。

あと産むことを決断したのは、昨年の11月17日、妻が妊娠検査薬で検査した時に陽性反応を見た一番初めの自分の気持ちを思いだしたのです。
それを見たときに「やった!」と素直に喜びました。だからその一瞬のその時の自分の感情が一番素直な自分であった事を思いだしたのです。だからその後の考えるネガティブ発想はすべて「たら」「れば」であり、その環境を変えることも出来ると思いました。

それで、妻のお腹に居る宿った大切な命、私の子どもであり、妻の子どもであり、真輝の「きょうだい」を産むことを決断しました。

今回は少し重たい内容でしたが(笑)、次回は婦人科の検診に立ち会った話を書きます。