シスカンパニーの“友達”見に行けなかったので

配信で観劇しました。




非常に不気味で、とっても好きでした。



物語の不気味さが他人事ではなく

実はとっても身近にありふれていること、

もしくはそれどころか

自分自身がその不気味な存在自体なのかもと疑わずにはいられないそんな作品。



ハッとさせられました。




ここからは少しネタバレあります。




冒頭、一人の孤独“そう”に暮らす男の家に急に“可哀想だから、寂しいでしょ”と勝手に上がりこんでくる9人の“家族”という人たち。


不法侵入だ!!!と声を荒らげる男性に

なにをいってるの、もうこの時を共にしてるんだから友達じゃない!と。


話せば話すほどその9人の男女はいろんな角度で自分の正解や正義を並べ立ててくる。


男がそれは違うというと9対1の多数決がはじまり、毎度男は9人に負ける。


客観的にみていると、明らかに男が正解を述べているのに

9人の揺るぎない正義に

たった1人の正解は打ち勝てない。


このやりとりがずっと。

正解とか正義だとか一体何なのかわからなくなってくる。



奇妙な空間。





本当に近頃ちょうど


人から宝物のように手渡しで渡される真実とか正義って気味が悪いなと感じていたんです



だってどんなに深く話しても

時々彼、彼女らが大切そうに渡す“ソレ”は

わたしの正義でもなければ真実にもなり得ないもの、だったりするから。


あなたもこれが欲しいでしょう?嬉しいわよね?と姑なのかと言わんばかりの強引さに

一発ビンタしたくなるような感覚。笑



実際にニュースで流れてくる数字という結果が表しているものは“事実”だけど、

その“事実”というものが、全ての人が善とするのか悪とするのか

それはそれぞれの価値観だとおもうんです。



人間って他人から自分を見つけ出す寄生虫のような部分がたまにあるなと思うこともあったりして


出来たら賛同してほしいし、同じ意見で結託したい部分がある。

それが仲間であり、友達?


友達の定義とは?




ある舞台で印象的な言葉があって



わたしは金髪が似合うみたいで

笑ってる方がいいみたい

いつも優しそうで、すごく穏やかだねって言われた


いつからかそれがわたしになってた。




ほーなるほど、と。



たしかに、わたしは、友達という人たちがくれた善意の言葉で作られたものかもしれない。


全てがそうでなくても


そんな部分も少なからずあるなって



小学生の時に言われたゆかちゃんって冷静で気が強いよね、もっと優しく話したら?

黄色が似合うよね!

パステルカラーは似合わない

中学生の時に言われたゆかちゃんってそつなくこなして苦労してなさそう、もっと努力すれば?

赤が似合うんだね!いいじゃん!

高校生の時に言われた怖くて近寄り難い

話したら明るくて気さくだから、もっとニコニコ笑えばいいのに

彼氏つくったら?結婚しないの?こどもは?




私は少なからずその言葉たちから形成されてる



これは今言われたらめちゃくちゃありがた迷惑だし余計なお世話。でも

若いときに言われてたから私ってそうなんだ、、、と落ち込んだり、嬉しかったり。それが私になったりした。


言葉を受け取るタイミングって、あるよね。



本当、押し付けがましい正義ってなんてハラスメントなんだろうって軽蔑するけど


調子のいいとき、わたしもきっと正義と銘打って友達や家族、身近な人にそのハラスメントをしてきたし、もしかしたらいまもしてるのかも、って思うとめちゃくちゃ怖い。



だれかを信じて依存することはすごく怖いことで


それはきっと、だれかを信じているというよりも

誰かを信じていられている自分を信じたいだけ。



裏の裏にいる自分のこともやっぱりずっと疑わしい。




もしかしたら明日は9人の加害者側になっているかもしれない



孤独“そう”な人に『大丈夫ですか?何かしましょうか?』と勝手に家にあがることは絶対やめよう、


そう誓った夜でした。