『猿の惑星/新世紀』感想。猿でもわかる、戦争のはじめかた。 | まじさんの映画自由研究帳

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ポスタ

アンディ・サーキス主演作品!初の主演作品である!『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズに於いて、CGに俳優の動きをトレースする、モーション・キャプチャー技術で、ゴラムを演じて以降、『キングコング』でタイトルロールを演じ、次世代のデジタル着ぐるみ俳優としての地位を確立した。『ホビット』シリーズでも再びゴラムを演じており、『ゴジラ』(2014)でも、ノン・クレジットながら、堂々たる演技を披露したのは記憶に新しい。
どの作品においてもCGキャラクターに命を吹き込み、主演俳優を凌駕するその演技は、見事という他ない。また、前作の『猿の惑星/創世記』ではシーザーを演じ、抑圧からの解放という、難しい役どころを見事に演じた。彼の演技は、主演のジェームズ・フランコのそれを完全に喰っており、主演では?と騒がれたが、今回が、彼にとって初のファースト・クレジット作品となった。おめでとう!Mr.サーキス!
そして今回も、前作を超える力強い演技を見せてくれた!ありがとう!Mr.サーキス!
サーキス
と、今回の『新世紀』の良さは、彼の演技だけではない。感動に震えるほど素晴らしいものだった。
いや、恐怖に震えたのかも知れない。とにかく鑑賞後、オイラは震えていた!

最初に前作ダメ設定が紹介されるシークエンスが入った。もう、それは忘れてくれてもいいのにと、オイラは半ば呆れて見ていた。猿の知能の発達と、人類の滅亡を同時に行う都合の良すぎる薬が、前作の汚点であると思っていたからだ。
また、猿たちの手話に字幕が付くのに、多少の違和感を感じたが、まぁ、それは直ぐに慣れた。だが、この前振りが、実に見事に昇華していく脚本に、オイラは思わず脱帽した!猿たちが、言葉を使う必然性までが描き込まれているのである。
マルコム

アルツハイマーを治す薬を作ったら人類を滅ぼすウィルスできちゃいましたという、トンデモ設定に対し、ワクチンではなく、抗体持ってる人は大丈夫!と、新たなトンデモ設定でウィルスを無効化!ウィルス設定を過去のモノとした。その上で、少数の生き残った人類という終末世界を作り上げたのだ。前作の主人公ウィルの現在は、全く見せない。彼が出て来ると、ワクチンを作る話になってしまうからだ。
そして、自らが生み出し、自らを滅ぼすウィルスであるにも関わらず、人類は「猿インフルエンザ」と呼び、猿への嫌悪感を抱く背景を創造している。この根拠のない嫌悪感こそが、戦争へ発展する根拠になっている。荒唐無稽な設定の中で、現実の戦争の根源を見せているのが、秀逸である。こうした根拠のない嫌悪感は、風説が偏見を生み、敵対していく様は、猿でなくとも世界中の人類同士で現実に起きている。

シーザーのキャラクターは、ボス猿というより、ファミリーを守るマフィアのドンである。口をへの字に曲げて、言葉数少なく、忠誠を誓わせるサインなど、身振りで意志を伝える演技は、『ゴッド・ファーザー』のドン・コルレオーネを彷彿とさせる。
サイン
人類の中で育ったシーザーは、人類の素晴らしさと愚かさを同時に知った。そして、銃の恐ろしさを知った彼は、「猿は猿を殺さない」などの掟を作り、仲間に忠誠を誓わせた。その彼を軸として、人類と猿を対照的に見せているのが本作の見所である。

猿と人類。両者の目的は純粋だ。どちらも「生存」という、基本的本能からなる。人類は自らの滅亡を食い止めたい。猿は平穏に暮らしたい。それだけだ。だが、両者は共存を望む者だけではない。私怨から全体を恨むようになる。そして両者は、森の中で出会うのだ。

カーヴァとコバの存在は、とても重要だ。カーヴァは、人類の一般的な偏見で猿を見ている。元々、猿への嫌悪感があり、高度な知能を持った猿を恐ろしいものだと思い敵視する。ヒトは未知なるものを恐るものだ。
銃を持つコバ
そしてコバは、幼い頃から研究施設で育ち、度重なる実験をされた経験から人類を敵視している。だが、シーザーを心から尊敬しており、忠誠を誓っている。仲間を思いやるが為に、自分の不満を押し込める強い理性を持っていた。

ここで、重要なアイテムが出てくる。銃だ。

人類は、恐れから身を守るために銃を持つ。カーヴァが銃を手放せなかった理由はそれだ。未知の恐怖から、安心感を得るためには、それが必要だった。
カーヴァー
しかし、銃を突き付けられた者にとっては、それが身を守る道具にはとても見えない。相手が指一本動かすだけで、簡単に命を奪われるという、脅威の対象でしかない。コバはその脅威に立ち向かうために、銃の力を欲っした。
だが、銃の力は心を変える。
コバが「シーザーが、心配でならない」と、シーザーの息子ブルーアイズに漏らすのは、恐らく本音だったと思う。シーザーと意見は対立してはいても、常にコバは尊敬の念を持っていた。そうでなければ許しを乞う必要はない。群れから離れて、人間たちの不義を証明すれば良かった。だが、コバはシーザーの下でそれを証明しようとしていた。だが、銃を持ったその時、銃の力の大きさを知り、最も短絡的な証明方法を取った。そして、シーザーは銃の恐ろしさを最悪の形で再認識する事になる。
シーザー

銃の恐ろしさはそこにある。銃を持つ者は、持たない者に対して優位になれる力を持つ。たった一度その力が利己的に使われれば、それは終わる事のない恨みの連鎖が始まる。殺された者の家族は殺した者だけでなく、殺した者の仲間まで恨む。
カーヴァは身を守る力として銃を持ち、コバは銃の力に憧れて利用する。シーザーは銃の力を知るが故に、銃を拒絶する。三者の銃に対する思いの絡み合いが、この映画の大きなテーマとなっている。

旧シリーズでも多くの社会風刺を取り入れていたが、今回も、現代の不安定な世の中を反映し、戦争の起きるプロセスを見せている。

さて、『猿の惑星』シリーズは、長い歴史を持ち、映画史を語る上で欠かせないものであるが、本シリーズの歴史は、そのまま特殊メイク技術の歴史でもある。かつて旧『猿の惑星』でジョン・チェンバーが、特殊メイクにより、人類を猿に変えた。
旧
『猿の惑星』(1968)

リアルな外観を持った直立する猿に、パラレルな異世界に来たような印象を与え、衝撃のラストによって、歴史に残る名作となった。
当時、彼の弟子として特殊メイクの助手を務めていたリック・ベイカーは、ティム・バートン版『PLANET OF THE APES/猿の惑星』で、「俳優の表情が活きる特殊メイク」を創り上げた。俳優の口に、猿の歯に整形したマウスピースを付け、俳優の口元を内側から持ち上げて施すメイクを完成させた。
バートン
『PLANET OF THE APES/猿の惑星』(2001)

これにより、俳優の唇が露出され、猿の表情の表現が可能となった。彼は、「コレ以上のモノを求めれば、俳優への負担が大きくなる」とし、特殊メイク技術は、究極の到達点に達した。そして前作『猿の惑星/創世記』では、特撮スタジオのウェタにより、初めてモーションキャプチャーを用いたCGによる猿の表現に至った。まるで生きているかのような猿の表現は、驚愕の映像効果を生み出した。

今回、画期的なのは、モーションキャプチャーの技術が飛躍的な進化を遂げた事だ。今まではグリーンバックのスタジオで行っていたキャプチャーを、野外に持ち出した。よって、キャプチャースーツを着た俳優が、撮影現場で演技をする事が出来るようになった。このため、俳優の想像力に頼るだけでなく、対面演技が可能になり、俳優のリアルな演技を引き出す事が出来るようになったのだ。
対面演技
俳優は、何もない空間を相手に演技をしなくてよくなったのだ。
だが、スタッフたちの負担は大きくなった。野外なので、猿たちの毛の表現が、フサフサであってはならない。雨に濡れて乾いたような、ゴワゴワした毛の表現が求められた。また、キャプチャースーツを着た俳優をコンピューターで消し去り、CGの猿に1コマずつ置き換えるのだが、この作品は全編3Dカメラで撮影されており、その作業が2倍になった上、消した部分の背景の遠近がズレるという弊害が出た。その為、膨大な量の補正を、手作業でかけたという。スタッフたちの苦労が伺えるエピソードだ。
比較
その苦労による結果は、俳優たちの自由な演技に活かされ、対峙する人類と猿の緊張感を見れば、一目瞭然である。
この『猿の惑星』シリーズは、常に猿の表現を進化させて来た。今回の「心も進化した」との宣伝文句は、つまり、映画のCGキャラクターが、心も表現できる進化を遂げたという事でもある。
革新的な技術で見事な効果を生みだした全てのキャストとスタッフに、心からの拍手を送りたいと思う。


この映画では、原作の持つ多くの精神を、しっかりと現代に落とし込んでいる。猿と人類が戦争に突入するプロセスを克明に描いている。

だがコレは、猿の話ではない。
我々人類同士の話である。

現実の戦争も、こうした背景で起こっているのは言うまでもない。愚かな嫌悪感は、個人個人が持つ感情だ。その個人は、同じ感情を持つ者たちと出会い、偏見へと流される。だが、我々はその前に、まずは話のわかる者を見つけようと努力をすべきである。相手を敵だと言うのなら、敵を知るのも悪い事ではない。敵ではないかも知れないからだ。
この映画では、一つの可能性を見せている。シーザーとマルコムとの間に生まれた信頼である。
信頼
彼らは友情で結ばれた。こうした交流をもっと多くの人が持てたなら、戦争を止められたに違いない。

戦争は、個人を個人として見なくなった時、誰かが引き金を引けば、簡単に起こってしまうものだ。
木を見て森を見ずと言うが、いつの世も、森を見て木を見ぬ者が争いを生む。森ばかりを見ている者たちは、この映画の猿から学ぶべきである。

本





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