『ラスト・ナイツ』感想。「忠臣蔵」の復讐心。 | まじさんの映画自由研究帳

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紀里谷和明監督最高傑作
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紀里谷監督は、意外にも真摯「忠臣蔵」を映画化していた!過去を反省し、見事な作品を作り上げていた!
断言しよう。
これは紀里谷和明監督最高傑作である!



・紀里谷和明という男
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米国でアートを学び、数多くのCM,音楽PVなどを手掛けた映像作家、紀里谷和明監督は、2002年に国民的人気を誇った宇多田ヒカルと結婚し、調子こいていた。公然と日本映画界のシステムを批判「俺は俺のやり方がある」と豪語していた。こうした俺流での『CHASSHERN』(2004)は、多くの実験的手法を取り入れたスタイリッシュなアート作品に仕上がったものの、原作とかけ離れた内容に、原作ファンから大ブーイングを受ける事となった。だが、一部の映画ファンからは、彼のオリジナリティが支持された。この事が、彼を増長させる要因となったかも知れない。その後も増長し続け、日本映画界の批判を繰り返し、自らのスタイリッシュなビジュアルセンスに磨きをかけ「キリキリのキラキラCG」を昇華させて行った。
しかし2007年、宇多田ヒカルと離婚してからは空回りし始める。『GOEMON』(2009)では衣装美術は評価されたものの、奇を衒い過ぎた映像が物語とかけ離れており、軽薄な作品となり、評価を下げた。

その後、自分の学んだアートを伝える専門学校の立ち上げに尽力するが、日本映画界を批判していた事で、日本映画界から総スカンを食らっていた為に、専門学校で大切な業界への就職斡旋力がなく、生徒を集める事すら出来ずあえなく失敗に終わる。
気が付けばもう、誰からも相手をされなくなり、日本で映画を作れない状況に陥ってしまった。

だが、それでも彼の映画作りへの情熱は、まだ消えてはいなかった。今までの行いを猛省した紀里谷氏は、初心に立ち返って自分が学んだ米国へ飛び、自ら資金集めに奔走し、ハリウッドで日本のサムライ魂をぶつけた。この『ラスト・ナイツ』は、紀里谷和明監督が再起をかけて挑む入魂の一本となっている。




この『ラスト・ナイツ』「忠臣蔵」を描いている事はご承知の通りなので、今更ネタバレも何もないと思っているが『ラスト・ナイツ』での「忠臣蔵」の見所を、レビューしてみたいと思う。



・異国情緒の「忠臣蔵」
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この作品は、西洋の国王を中心とした架空の王国を舞台に、騎士道を通して「忠臣蔵」忠義を説いている。中世ヨーロッパ風の世界観を作り、異国情緒たっぷりに描いているのが面白い。

今回、その世界観の構築に大きく貢献しているのが、衣装である。キモノを意識した見事な衣装には目を見張る。衣装を手がけたのは『GOEMON』から引き続き、オーストラリアのファッション・デザイナー、ティナ・カリバスである。クリムトを彷彿とさせるような、ゴージャスなデザインで人気を集めている。国王や、ギザ・モットの衣装は、ティナ・カリバスらしさと、和のテイストか融合したデザインとなっていた。中でも討入りの時にライデンたちが着るコートは、赤穂浪士の陣羽織をそのまま洋風化したようなデザインとなっており、和洋折衷のゴージャスな仕上がりを見せている。
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今回は紀里谷監督の作風も見直され、安っぽいキラキラCGを自ら封印し、ロケとセット撮影を中心にリアルで重厚感のある映像美で見せている。アクションでも無駄なスローを排し、リアルな映像を作り込み、テンポで魅せる映画らしい映像になっている。その中にもカット割りで見せる紀里谷スタイルは健在しており「一皮むけた紀里谷」を観る事ができる。



・キャストについて
この映画では、実に17ヶ国もの多国籍な俳優を散りばめており、架空の王国の異国情緒を醸し出している。

配役には名優モーガン・フリーマンが、浅野内匠頭に当たる領主バルトーク卿演じている。短い出演ながら、威厳あるオーラを放つ芯の通った演技を披露し、さながら年老いたオセローを彷彿とさせる貫禄を見せている。最近、チョイ役だと、露骨にやっつけ感のある演技を見せる彼だが、ここでは手を抜かない演技を見せているのが素晴らしい。紀里谷監督の熱意に答えた証拠だろう。
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吉良上野介に当たる悪徳大臣ギザ・モット卿を演じるのは、ノルウェーの実力派俳優アクセル・ヘニーだ。舞台出身らしく、様式的な演技で、悪徳大臣の嫌味なキャラクターを怪演している。特に悪徳であるがゆえの恐れの演技は注目である。

そして、本作の主人公、バルトークの家臣ライデン隊長を演じるクライヴ・オーウェンは、大石内蔵助の二面性を演じ分けており、正にハマり役だった。渋味のある彼の演技は、我々がよく知る大石内蔵助像のそれであった。まさか日本人俳優意外にもこの役ができるとは思いもよらなかった。
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また、映画オリジナルのキャラクターで、ギザ・モットの警護官を勤めるイトーに、伊原剛志が当たっている。執拗にライデンを監視し、追い詰めていく彼の演技は神がかっており、傭兵というよりは「先生」と呼ばれる用心棒の貫禄で、見事な太刀筋を披露していた。


・インターナショナルな「忠臣蔵」
この作品は、西洋の騎士道で「忠臣蔵」をスタイリッシュに描くという紀里谷監督の美学を貫いているだけでなく、ストーリーの構築にも成功している。マイケル・コニーベスドブ・サスマン脚本「忠臣蔵」の魅力をよく研究しており「忠義」をテーマに、大石の世を欺く姿を中心に据え吉良の恐れや討入りのアクションなどを取り入れ、エンターテイメント性の高い脚本に仕上げている。

基本的に「忠臣蔵」を基本とした展開になってはいるものの、インターナショナル向けの改変を行っていた。



※ココからちょっとネタバレして、西洋文化に合わせた改変部分について触れます。







・「忠臣蔵」の解釈
大きな改変が2つあった。
発端となる浅野内匠頭の刃傷に及ぶ動機も改変されており「バカにされてキレた」のを、吉良上野介側にする事で、義の所在が明確になっている。
恥をかかされる事が死よりも辛いという武士の価値観は持ち込まず、ここでは現代的な価値観に即した正義を見せている。

特に切腹をなくした事は、高く評価したい。日本では名誉の切腹であったが、西洋において切腹は「自殺を強要するクレイジーな死刑」であり、自殺を禁ずるキリスト教において自殺者は、死後も永遠に地獄で苦しみを受けると信じられている。よって切腹死後も許されぬ恐ろしい厳罰と捉えられ兼ねない。また、それは神の裁量をも越える刑罰となり、キリスト教文化圏内では、全く意味の違ったものと捉えられてしまう。切腹を表現しなかったのは正解である。単に「覚悟の上の死刑」としたのは「忠臣蔵」本質を捉えた良い脚本と言える。

ライデンに主君のバルトーク卿国王の御前で斬首させるのは、西洋の文化ではありえない事だが、あえてそれをしたのは「忠臣蔵」に於いて浅野内匠頭介錯人を頼みたかったが、それが叶わず大石内蔵助が間に合わなかった事へのオマージュであろう。

切腹の意味するところは「覚悟の死」である。その真意が伝わるのであれば、西洋の文化で切腹を表現すべきではない。この映画では、その当たりをしっかりと描いていたのが良かったと思う。

また、ライデンが娼館で酒に溺れた生活を送るのは、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵 七段目 祇園一力茶屋の場』へのオマージュであり、多くの「忠臣蔵」でも描かれる見せ場だ。この場で、兄妹が再開を果たしたり、顔世御前からの密書を受け取るのは、歌舞伎でも有名なシーンである。今作でも、再開の場面を見せたり、重要な情報を受け取る設定を入れたのは、うまいと思った。


・「忠臣蔵」の課題
これだけでも「忠臣蔵」を知る我々日本人には、十分な作品に仕上がっていると言えるが、欧米での評価がイマイチ良くない。これにはいくつかの理由があるに違いない。ここでちょっと推察してみよう。

一つは、浪士たちを英雄視する意義が希薄だったように思われる。この映画には大衆が、悪代官の成敗を待ち望んでいるような表現がなかった。ギザ・モットが大衆に嫌われる直接的な表現を入れる必要があったのかも知れない。馬車の前を横切った子供を打ち首にしようとするのを、赤穂浪士が目撃するなど、ベタなシチュエーションが欲しかった。

西洋文化において、主君の仇を討つなら、それなりの正義と理由が求められる。原作である「忠臣蔵」には、実はなぜ仇討ちをするのかの理由が、明確に描かれていない。なぜなら、父親や主君の仇を取るのは、武士たる者の当然の勤めだったからだ。

では、赤穂浪士はなぜ英雄となったのか?
それは、世間の期待に応えたからである。松の廊下刃傷事件に端を発した、赤穂藩への一連の処遇は、江戸の町に瞬く間に広まった。主君は切腹、お家断絶という厳しい処罰に、町人たちの同情が赤穂藩に集まり、吉良への不満が一気に高まったのである。江戸の町人たちは、浅野の切腹からすぐに、彼らが仇を討ちに来ると確信し、勝手な期待から噂が広まっていた。赤穂浪士が吉良邸に討ち入った事で、大衆の期待通りの展開になり、忠義の義士として英雄視されたのだ。当然の事ながら原作の「忠臣蔵」にはそれが描かれていない。「忠臣蔵」は、既に英雄と知られた者たちの伝説を描いた英雄譚だからである。当時は、なぜ英雄となったかのかを描く必要はなかったのだ。だが、現代的な解釈で、海外に発信するならば、彼らを英雄とする、大衆目線の要因を見せる必要があったかも知れない。

そして、もう一つはライデンが酒に溺れ遊行三昧しているのを、世を欺く仮の姿だったと明かすタイミングである。実はもっと早くにバラして、ギザ・モットを欺く駆け引きを見せる方が良かったのではないだろうか?確かに、ネタバラシは、後ろに持って行った方が現代的だし「あの時は実はこうだった」とやる方がスマートだ。だが、バレそうでバレない緊張感も「忠臣蔵」には重要な要素だったと思う。そこは観客まで欺く必要はなかったのではないだろうか。「忠臣蔵」をわかりやすく砕いてはいるものの、海外に配信するには、まだ嚙み砕きが足りなかったのかも知れない。



※ネタバレはここまで




・21世紀の「忠臣蔵」
『ラスト・ナイツ』は、日本人監督による21世紀初「忠臣蔵」映画である。1994年の『四十七人の刺客』(市川崑)と『忠臣蔵外伝四谷怪談』(深作欣二)の競作以来となる。外伝としては2010年に、杉田成道監督の『最後の忠臣蔵』が製作されており、切腹しなかった2人の赤穂浪士のその使命を描いている。また、日本向けではない「忠臣蔵」としては2013年にカール・リンシュ監督による『47RONIN』があったが、起結だけ合わせた魔改造で、大切なテーマを見失い、日本以外の誰に向けたものなのか、定かでない仕上がりとなっていた。だが、今回の『ラスト・ナイツ』は、ホンモノである。難攻不落の城に、綿密な計画を立てて、音もなく討ち入る浪士たちの姿は、さながら忍者のようであり、正に「忠臣蔵」の醍醐味を見せている。本物の「忠臣蔵」を、劇場で見られるだけで、オイラは大満足である。
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・映画に込められた思い
映画公開に先立ち、紀里谷監督はTV出演を通し、過去日本映画界批判反省し、謝罪の気持ちを伝えていた。この映画のプロモーションでも、とても謙虚に活動していて、マスコミのいない一般試写会へも駆けつけ、作品へ込めた思いを熱く語っていた。
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謙虚に過去を反省した男は強い。人柄の良さが滲み出ており、高感度も高い。
だが、この『ラスト・ナイツ』は、過去に批判した日本映画界のやり方ではなく、ハリウッドのやり方で作られている。実は『ラスト・ナイツ』は、彼の日本映画界に対する挑戦状なのではないだろうか?彼の本音のところはわからない。だが、謙虚に名刺を配りまくる紀里谷監督の姿を見ると、世を欺きながら復讐の機会を狙う大石内蔵助心境を重ねて見てしまい、何か熱いものがこみ上げてしまうのである。
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