『スイス時計のようにね』 | 朔太郎のエッセイだったり短編

朔太郎のエッセイだったり短編

「今さらブログのようなものを始めたのはいいんだけどね」
と言って、コーヒーをひとくち飲んだのは良いが
熱くて噴いた。


 雨がパラパラと欄干を打ち、踏切りの音がカンカンと響き渡り、そこへ車の排気音や人々の怒声が重なっていく。それはまるで少しずつ音が整理されていくマスタリング作業のような光景だった。そしてそれらの音が少しずつズレ、消えては足され、わけのわからない多重演奏になり、そこからまた雨の音だけが独奏(ソロ)へと落ち着いていった。
 協奏曲だ、と思った。
 
「こんにちは」と僕はいつものようにトタン屋根の下で顔を洗っている山中さんに声をかけた。「調子はどうですか?」
 猫が顔を洗うと雨が降る、と昔からよく聞くが、確かにパラパラとではあるが雨は降っていた。いや、あれは降る前の話だったかな。もう降っているとなると関係ないのか。気圧の変化と関係があるのだろうか。そのあたりを何年も前から某検索サイトで聞こう聞こうと思ってはいるが、いまだに聞けていない。大事なこととして自分の中の優先順位にランクインしていないのだろうか。しかし、そういえばシェービング・クリームも買おうと思ってから二週間くらい経ってしまっているな、ということに気が付いた。シェービング・クリームは意外と大事だ。とすると……。いや、もうよそう。
「スイス時計並に順調だよ。もちろん」と彼は言った。「雨を見ながら一杯やるのがこの時期はいいね」
「なるほど、雨を肴に雨水で一杯ですね」
「そういや、あんたのくれたブランケットは暖かくて気持ちが良い肌触りだ。どこのブランドのやつだい?」と彼は僕の問いかけは聞こえていないかのように話題をするりと変えた。
「ブランケット?」と僕は言った。
「そう、ブランケット」と彼は言った。
「ああ、先日置いていったやつですね。あれはJSFのものなんですけど、保温性もばっちりでなかなかお値段もかっこいいんですよ。見た目も山中さんに合うブルーグレーですし。お気に召して頂けたようで何よりです。山中さんはJSFってご存知ですか?」と僕は訊いてみた。
「ブランケットはウールに限るな。シルクやらカシミヤやらポリエステルやらそのほか色々なものを試してはみたが、落ち着いて眠ることが出来るのはやっぱりウールだな。うん。」
 このように僕の問いかけは78%の確率で流されてしまうのだ。
 
 その後も山中さんは、2割程度僕の問いに答え(的確な質問をしないと返答がない)、あとはウールの良さや原産地での比較、外国産の生地の怖い話などをジェスチャーをまじえながらおもしろおかしく話してくれた。
 
 トタン屋根を打つ雨の音が弱まった頃、「じゃあそろそろ」と言い僕は山中さんに、それではまた、と別れを告げた。彼も僕を見上げ、じゃあな、と言った。気のせいか彼のその目は僕を見ているようで、実のところ何も見ていないようだった。