愛を選びたい理由 | We are one / 未来

We are one / 未来

動機はやっぱり愛がいい。
愛と希望を選ぶ。

「愛が大事」



「愛に生きたい」



「愛がなければ何の意味もない」



なんて言ったら
笑われるかもしれない



これまでだって、これからだって
ただの綺麗事のようにされて、バカにされて終わる



本気で耳を傾けてくれる人なんて
ほとんどいなかった



「愛に生きたい」なんて言って得することなんて何ひとつない



むしろ「あぁこの人は夢を語ってんだなぁ、現実的じゃないなぁ」
で済まされることの方が多い



こんなこと発言しない方が、ラクだし平和
自分のために「もう何も言わない、言いたくない」とシャットダウンしてた期間が何年もある



だけど今、
そんなちっぽけな理由で自分の愛を出し惜しみするのはやめようと決めた



去年、自分の人生の大きな転換期を迎え
愛について
人生について
神様について
真正面から向き合う機会が訪れた



私は何がそんなに怖いのか
なぜ愛に生きることを躊躇するのか
いつまで中途半端な生き方をしているのか



ただひとりでその「想い」を抱え込んでいたって
それを世界に使わなければ何の意味もない



そこを超えなければ
私の本当の人生は何も始まらないと











だけど、私は「愛に生きたい」という
この大切な想いすら、忘れていたこともある




愛ってなに?
なぜ自分を愛することが大切なの?
なぜ周りに愛を与えるの?



まず「自分を愛しましょう」なんて言われても
私にはよく分からなかった




どうやって愛するの?
なぜ愛さなければいけないの?




「人に愛を与えたければ、まずは自分を愛することです」




ありふれた綺麗事だと思っていた




だけど実際
当時の私は、自分を愛することもできなければ、人を愛することもできない状態だった





だって
「人に優しくしましょう」とか
「人のためになることをしましょう」とか
「人に愛を与えましょう」とか




そんな風に言われたところで
「そんなの出来るわけない」
「そんなこと本気で出来るのは聖者かマザーテレサくらいだ、あとはみんな上辺だけ」と思っていた





その頃の私は
自分の人生に嫌気がさしていたし、こんな人生どうしようもないと思っていたし
自分も周りの人間も、社会も、何もかもが嫌で仕方なかった




「自分」という存在の何もかもを否定していて、同時に「世界」に対しても否定だらけだった




そんな状態じゃ、当然
人に優しくなんかできない


人に愛なんて与えられない



だって
自分が愛で満たされていないから
自分がカラカラの干からびた状態だったから



私には
人の為に生きる余裕なんて
これっぽっちもなかった



だからその時は当然
人の為に何かしたいなんて思えず




私はただ
人の為ではなく
自分が幸せになりたくて
自分を愛してみようと思った



癒す時間が必要だった


 
そこでまずは
自分を満たすことから始めた


自分を愛することから始めた


どんな自分も認めて許すことから始めた




簡単にはいかない



これまでの生きてきた中で培った癖がある



すぐ自己嫌悪、罪悪感、自己否定に入る



でも徹底的に向き合って
続けてみた



そうすると
過去の封印していたトラウマや、我慢していた想いが溢れに溢れ、私を襲ってきた



その度に時間はかかるけど
ひとつずつ向き合って癒していく



あの時、
悲しかったな
寂しかったな
たくさん我慢したな
本当はこうしたかった、、、



次から次へと封印された想いは出てくる




そこに向き合うには痛みが伴うけど
だけどそれ以上に、自分の内側が徐々に満たされていくのを感じた




何年も時間はかかったけど
私はそれを続けた




まだまだ
完全ではないし
完全になりきれることはないけれど




あの干からびていた状態に
潤った水が入ったのを感じる



瞑想にも助けられた



10年弱かかった



そうして、今
私は自然と
周りに愛を与えて生きたいと想えるようになった



自分から溢れる愛を
周りに貢献したい



今、愛の実践へと歩き出そうと決めた




口先だけの愛だの優しさだの
そんなの何とだって言えるし、何とだって誤魔化せる




だけどそれはその人自身のふるまいに現れるから、バレる人にはバレてしまう




愛なんて口では言っていながらも、一番身近な人に優しくできていなかったり、日常生活が傲慢になっていたり



はっきり言って
そんなの全く意味がない




もちろん自分自身にも言えることだ




「人のために何かしたい」



そう思えるようになった今でも
日常生活の中で



自分の軸がブレたり
状態が弱っているときには




心の底から
周りの幸せを
真に祈ることなんて出来なくなってしまう



もしかしたらエゴかもしれない
そう思うこともある



そういう時には一旦立ち止まり
自分の沈黙に入る時間を作る
瞑想するようにする



完ぺきになんかなれない



完ぺきな愛の人になんか
一生かけてもなれない



でも
自分の純粋さを信じて
真の愛を知って
愛に生きて
愛を実践したい



その想いだけは確かだ



それは何か
大それたことをするのではなくて
日常生活の中での実践からだ



それしかない
日常生活で傲慢な人に
愛なんて語る資格などない



だから私はあえて
普段の日常生活で、毎日、愛actionのテーマを決めて過ごしたりした



その日、自分に出来る愛の行動を考えた



例えば
・人をサポートする
・笑顔で過ごす
・動物に優しくする
・丁寧に言葉を使う
・祈る
などなど




そんな簡単なこと?と思われそうだけど
この日常生活の中で、出来ることから行うというのが、今できる一番の愛の実践だと思う




才能や能力なんて全く関係ない
どれだけ知識があるとか、スピリチュアルな能力があるとかもう本当にいやだ
そんなの全く関係ない




ただただ
自分の純粋な愛を何かや誰かのために使うこと
これだけだった




どんなに小さなことでもいい
誰が見ていなくてもいい
ただ愛のタネを蒔き続けたい




先程も書いたように
完ぺきになんかなれない
ブレる時もある



でもせっかく自分の内側から愛の想いが湧いた時に行動しないでどうする?
ここでまた沈黙するのか?と問われる



私は動き出したい



この想いからブレないように
少しずつ食事を変えたり、瞑想したりして日々の生活を心がけるようにもなった




それでもまだまだまだまだ
ようやく歩き始めたばかり
何度でも言うけど、私はまだまだだし、何も知らない




でも沈黙するより、歩き出したい



だって
愛で溢れる世界をこの目で見たいから
死ぬまでに
この世界を愛で溢れる世界にしたい
それが私の一番の望み



夢の話じゃなくて
最も現実的な話



ならば
自分が歩き出す以外、方法はない



今、私の大部分を占める想いは



本気で


誰かのために


世界のために


地球のために



何かしたいと
心から思えて仕方ないということ










そこまで想えるようになったキッカケ、、



それは去年
祈り、マントラを教えて頂く機会があり
その時初めて



心から、本当に、心から
世界のために祈りたいと思えた


▼その時の記事


小さな頃から
ひとりで祈ることがあったけれど



おとなになって初めて
全身全霊で心から
世界のために祈った



それは
これまでに感じたことのない幸福が自分に訪れた瞬間だった



あれだけ
人にも自分にも優しくできなかった私が

 

自分を超えたものに対して、心から祈りを捧げられた瞬間



自分の神聖さと愛を感じた瞬間だった



自己を超えた、誰かや何かのために祈るという行為が、最も尊いものだと感じた



そしてその祈りは
目に見えなくても必ず届くと確信に変わった



自分の中の
本当に純粋な愛を世界に使いたい



私はこれがしたかったんだ
私はこうやって生きていきたいんだ
それが真の願いだ

 

心からそう思えた



自分が死ぬまでに
自分の人生をできるだけ世界に貢献したい




それが私の本当の望み



その為には自分が
どんな時も愛を選んで
愛を実践していく必要がある




どうかいかなる時も
自分が愛を選べますように


読んで頂きありがとうございます✨✨