東日本大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに被災地の早い復興を願います


田舎でお盆の頃に自生していたアジサイ




私の実家は東北です
3月11日、震災で実家に大きな被害はありませんでしたが、津波で漁港が流され浮桟橋はアメリカにたどり着いたようです
母は震災の2時間後に脳出血で倒れ病院に運ばれましたが、停電のため検査もできず2日後に亡くなりました

以下、その時の思いを綴りたいと思います

私の思いをただただ綴るので長文になります

どうぞスルーして下さい






3月11日、夫は自宅で仕事をしていました
揺れている中、寝ていたミントを片手で抱っこし、倒れそうな食器棚と飛び出してきそうな勢いの電子レンジを必死で抑えたそうです
ミントは揺れていることもわからないまま、寝ているところを邪魔されてガウガウ怒っていたそうです
幸せなヤツです
自宅は花瓶が数個、床に落ちて床が凹んだくらいで大きな被害はありませんでした


私はその時、職場のエレベーターに一人で乗っていました
めまい?と思いましたが体がエレベーター内の壁にガンガンぶつかり「やばい、地震?エレベーター止まって~」と、とりあえずボタンを全部押し1階で止まり扉が開いてホットした後そのままエレベーターは止まってしまいました

まだ揺れているし、こんな時は屋内にいた方が安全なのでは・・・と思いながらも外を見ると人々が大勢外に出ています
人間の心理・・・やっぱり人のいる所に行きたくなるのです
怖くて怖くて・・・生まれて初めて、知らないお姉さんと手を取り合って看板やガラスが落ちてくるのではと上を見上げていました

揺れがおさまってから一度、階段で自分の仕事場に戻りその後帰宅しました

実家は軽い脳梗塞の既往のある要介護1の父と、チョコチョコ病院には行っているけど私より元気な母の老夫婦の二人暮らしで同じ市内に姉が住んでいました

実家に電話はつながらないだろうなと思いながら電話したら固定電話はつながり、母と会話しました
「いや~怖かった 大丈夫だ 便座が冷たい」というのが母との最後の会話です
姉が親の元に駆けつけており姉とも話しをして電話を切りました

その後からテレビで津波の映像が次から次へと目に入ってきました

明日は職場もどうなるかわからないから早く出勤しようと早々に布団に入っていると姉から電話

姉が帰ったあと母が心肺停止状態で病院に運ばれ、蘇生はできたが停電で検査もできず症状から脳血管障害だろうと
何もできない状態なので死を待つだけと

もちろんすぐに帰りたかったけれど
陸路はダメ
飛行機も飛んでない

帰れる状態になったら帰るから・・・と電話を切り、その後は寝れるわけもなく、とりあえずいつでも帰れるように荷物をまとめ、仕方なく喪服も入れて・・・

翌日早めに出勤すると他のスタッフも早々に揃っている
しかし、地震直後は大きなトラブルはなかったけど翌日は断水となり職場もバタバタ・・・

都内にいる姪っ子が「ばあさんダメだって」に酷く動揺し、地震翌日から飛んだ飛行機のチケットをなんとかゲットしたはいいが、都内の電車が一部止まり空港にいけない!
と、自宅にいた夫にSOS
路線を変えて我が家まで来て夫が車で羽田まで送り届けたと・・・
「私が仕事でバタバタしている時にありがとうございます」と言う感じでした

私も帰りたい
飛行機は飛んでるけど全て満席
夫もネットで時々チェックしていたようですが空席が出ない

仕事を終え「やっぱり空席は出ないか・・・」と私がネットでチェックしたら1席だけ空席あり
すぐに予約して日曜日の昼に帰れることになりました

職場もバタバタで休むことは非常に申し訳ないと思いましたが「気にしないで帰って下さい」という言葉に甘えました
皆さんも大変なのにごめんなさい・・・という思いで、後ろ髪を引かれながら帰省させてもらいました

一足先に帰った姪から電話で
停電で情報がなにもないため姉が「おにぎり食べたくて売店にいっても何もない
なんで? どうなってるの?」
姪が状況を話して初めて酷い津波の被害を知ったと


帰省する前の日から何品かオカズを作り、当日早くから炊けるだけのご飯を炊いておにぎりを作り、夫はなにが必要かわからないけどと、とりあえずホッカイロやお菓子を買ってきてくれました

飛行機に乗り込むと二度と経験することはないような機内の静けさ、重苦しい雰囲気
客室乗務員の「私たちは笑顔でいいのか」と困ったような控えめな笑顔
私はおにぎりやオカズを膝の上で抱えていましたが
スッチーさんに荷物は上の棚に・・・と言われ
汁がこぼれそうな物を自分で持って後はスッチーさんに預けて荷物を棚に上げてもらいました

しばらくするとスッチーさんが山盛りのお手拭を持ってきてくれました
私が???な顔をしていると「先ほどおにぎりが見えたので、よろしければこれもお持ち下さい」と
小さい事ですが人の優しさがなんだか泣けてきました

機長のアナウンスはいつも通り・・・の後に
「皆さんはこれから大変なところに行かれる! がんばって! 気をつけて!私にはそれしか言えませーん

と、絶叫しました
だれもが平常心を保つのは難しかったと思います

病院に着いて母の病室に入ると普通に寝ている母がいました
涙が出そうになりますが、とりあえず泣くのは我慢する

救急搬送時、付き添いの父も血圧が200以上であったため別の階にそのまま入院
余震の中、暖房も使えない停電の中に父を一人にできないので入院させてもらい助かりました
姉は階段で父と母のところを行ったり来たりで大変だったと・・・

私が帰った3月13日に電気が復旧したのでCTを撮り3月14日の未明に母は息を引き取りました
死亡時にはじめて朝撮ったCTを見ながら脳出血の場所の説明をうけました
少ない家族だけど病院というひとつの箱の中で母の最期に一緒にいれたことが救いです


娘としては母が倒れた時の様子が知りたい
父に聞いても動揺もあるのか話がよくわからず

お隣の家の方が救急車呼んでくれたので、お隣の方のお話を聞いて総合的に考えると


姉が明るいうちにインスタントラーメンを食べるように進め(ガスは大丈夫だった)帰った

ラーメンを食べ(最後の晩餐がインスタントラーメンとは悲しい)
「ちょっと寝る」と毛布に包まりソファに座ったまま時間が経過してもそのまま起きないので父が異変に気付きちょうどお隣さんが車で帰宅したので助けを求めて救急車を呼んでもらった

携帯が使えずどうしようかと思ったら父が「固定電話にさっき娘と孫から電話があった」というので固定電話で呼べたそうです

葬儀をどうするかで困りました
母の実家は岩手
岩手だって大変なことになっている
兄弟姉妹は関東・関西に散っています
葬儀屋さんからは会場が埋まっている、 棺が残り少ない、 十分な料理が出せないetc

でもこの後、日本がどうなるのかわからない
私は狭い場所でいいから家族葬を提案
この地域では家族葬はプランにあるけど行われたことはないそうです
姉は抵抗があったようですが、結局は家族葬にすることにしました
花だけは十分にあるというので、お花が好きな母のために花だけは贅沢に祭壇を飾ってもらいました

親戚には世の中こんな状態なので家族葬でやることを納得してもらいました
親戚にも申し訳ない気持ちでいっぱいでした

こんな状況の時に葬儀で申し訳ない

皆さんガソリンもないのでガソリン足りてる人に相乗りしたり、葬儀屋さんのマイクロバス出してもらったり・・・

娘二人はこの辺のしきたりを知らない

母にまかせっきりでした
娘の予定では父が先に逝き、母が取り仕切り、それを見て娘が覚える・・・という予定でした
が順番が逆になり娘2人困り果てる

葬儀屋さんに全て教えてもらいながら、ガソリンやいろいろなモノが無い中ホントに特例でお世話になり感謝しました

葬儀屋さんが母に着物を着せてくれてる時に「私も手伝っていいですか」と一緒に着替えをしました
思えば私が大人になってから母は入院するような事はありませんでした
母の看病など一度もしたことが無く、最後ぐらいは私も看病みたいなことしたいなと・・・

葬儀屋さん(30歳代 男性)に「お母さん綺麗ですね」と言われやっぱり娘としては嬉しく思いました
お世辞ではなくホントに綺麗だと思ってくれたと思います
さすがに毎日欠かさず高い化粧品でマッサージを続けただけあります

娘は心の中で
何やっても変わらないのに・・・
まぁ そのいっぱいあるクリームを順番間違えないうちはボケは大丈夫ね・・・と思っていました

78歳でも美意識の高い母でした

福島の原発が爆発している時、通夜、葬儀は進みました

火葬の時、入院中の父の外出許可が出ませんでしたが父が泣きながら「死んでもいいから行きたい」というので姉が一筆書いて無理に外出許可をもらいました

この地域では出棺の後お棺を開けることはないそうですが出棺時、早朝で父が間に合わないので葬儀屋さんがお坊さんに頼んで火葬直前に父のためにお棺を開けることの許可を頂ました

このお坊さん怖いことで有名らしい
が、中学、高校の私の一学年下の方
お坊さんは私のことは知らないと思うが私は知っていたので「怖い」と言われてもピンとこず・・・

父が火葬前に間に合い綺麗に死化粧した母と対面
泣きながら母の額をなでる

泣くのを我慢していた私もさすがに涙がこぼれる

決して仲の良い夫婦ではありませんでした
私が小さい時も老夫婦になってからも喧嘩ばかりの夫婦でした
それでもやはり夫婦の絆は強かったのだと思いました


全てが終わり自宅に戻ったとき母が居ないのが不思議
母は自分が死んだことに気付いていないような気がして「絶対その辺にいる」と思いました

ずっと泣くのを我慢していました
被災地の人は大変な思いをしている
ウチは葬式もできたのだから幸せ
母の口癖は「ポックリ逝きたい」でした
でも何で今なのよ・・・
いろんな思いがこみ上げます

泣くのを我慢しすぎて胸が苦しい

誰もいなくなったのを確認してティッシュの箱を抱え一人祭壇の前で思いっきり泣きました
母に優しくしてもカチンとくることばかり・・・
この人が弱ったら優しくしようと生前は優しくできませんでした

優しくできなくてゴメン
娘の幸せを願っているのに心配ばかりかけてゴメン

と、ひとしきり号泣

「親孝行、したい時に親はなし」を痛感しました



その夜姪っ子と2人で居間に布団をしいて2人で寝ました(灯油が残り少ないので節約)
さむ~い夜でした

夜中の2時半頃、暑くて汗かいて布団を剥いで目が覚めました
部屋の中がいつもと違う空気に感じました

私の勝手な思い込みです

母が来たと思いました
社会人になってから冬に帰省したことはありません
母が風邪をひかせたら大変なので冬は帰ってくるなと・・・
30年ぶりくらいに冬に帰りました

風邪をひかせたら大変と母が布団に入ってきた
亡くなる直前40℃の高熱でした その母が入ってきたと思いました

何度も言いますが私の勝手な思い込みです

朝、姪に「夜中暑くなかった?」と聞いたら「なーに言ってんの!さーむかったよ!」と

霊でもなんでもいいや
親だから怖くないし・・・

翌日私は自分の家に戻りました

数日間でパッツパッツだった喪服はゆるゆるになりました
食べない、寝ないってこんなに体重減るんだとびっくり

そういえばミントが亡くなった時も数日で2㎏減りました
すぐに元に戻ったけど・・・


実家ではその後、父一人では生活できないので姉が家に入りましたが夏に肺炎と脱水で入院
さぁ リハビリして家に帰りましょうとなった時
「リハビリなんかしない。俺は寝たきりになっていい」とリハビリを拒否

方言を標準語に変換しております


母が生きていた時は母の言うことは聞かず、娘の言うことは素直に聞いてくれた父
母が亡くなったら娘の言うことは全く聞いてくれません

あっという間に要介護1から一番重い要介護5になり姉の介護生活が始まりました

そして母の一周忌の一ヶ月後に父も亡くなりました






そして私は母が亡くなった後3月31日に足を骨折しました
計画停電があったり、いろいろあって落ち着きがなかったのでしょう
またまた、仕事を休むことになり職場に迷惑をかけ落ち込みました・・・



親と年に一度くらいしか、顔を合わせなかったのに、もうこの世にいないという事がやはり寂しいです
年齢を重ねるとはこういう事なのですね



自分の思いをただ綴りました

もし、この文章を最後まで読んで下さった方がいらっしゃいましたら、長々とお付き合い頂きありがとうございました