お久しぶりです!
先日起こった東日本大震災。
宮城や岩手、福島の方に比べれば「なんだそのくらい」というくらいですが、私の住む茨城も、被災地の一つです。
3月11日午後2時48分頃。
授業参観だった私は、体育館でクラス毎の発表を見ていました。
調度、最後のクラスの発表も終盤に差し掛かった頃でした。
揺れている。
もともと地震の多い地域なので、さほど気にすることもない大きさの揺れでした。
みんな、「誰かが揺らしているんだろう。」とぐらいにしか思っていませんでした。
しかし、揺れは長く、さらに徐々に大きくなっていきました。
流石に変だと思った矢先、バスケットゴールや電球、天井の骨組みが大きく揺れ、誰かが開けてくれたドアから、みんな一目散に逃げました。
その時、一番ドアに近い、校庭側の列の端に座っていた私は、混み合う階段ではなく、1メートルほどの高さから地面へと飛び降りました。
瞬間、ぐらりと視界がぶれたかと思うと、地面が揺れているとハッキリ分かるほどの大きな揺れが起こり、立っていられなくなった私はその場にしゃがみ込みました。
呆然としていると、誰かが混乱の中、「体育館から離れろ!」と叫びました。
友達に手を引かれ、なんとか校庭の中心まで走った私は、築数年のまだ新しい体育館の窓が大きい音を立てて揺れているのを見ました。
学校中の生徒、先生、調理委員の方々が身を寄せ合って恐怖に耐え、親や子の無事を確認している最中、2度目の大きな揺れが始まりました。
私は友達と手をぎゅっと握り、揺れが収まるのを待ちました。
私も含め、女子数名が泣いていました。
この地震は本物なんだ、これは現実なんだ、認めなきゃいけないんだ、家族は大丈夫だろうか。
最悪の事態までが頭を駆けめぐりました。
幸い、同居中の祖母は老人ホームに行っており、無事でした。
ぼたんのお母さん、ぼたん、柚子季と一緒に家路に着いた私が目の当たりにしたのは、さっきまで平穏で普通の時間が流れていた街が、崩れた姿でした。
家々のへいや看板、店の商品は倒れ、ガラスや窓、地面は割れ、陥没し、信号は消え、電線は切れ、街は混乱に陥っていました。
なんとか家族と合流した私は、めちゃくちゃになった家の中を見ました。
食器は割れ、自分で作った思い出が詰まったお皿が割れていたのは泣きそうになりました。
余震が絶え間なく襲ってくる恐怖と、12時間もの長い夜をロウソクの小さくて頼りない明かりだけで過ごすのは、とても心細く、不安で仕方在りませんでした。
翌日、私は弟と中学校での給水に並びました。
すでに校庭を一周し、千人はそこにいました。
大きな時計も、地震が起きた時間ぴったりで止まっていました。
皆が手に手にとった新聞には、地震がもたらした、認めざるを得ない現実が書いてありました。
「街が消えた」
心が痛くなりました。
一瞬のうちに、平和な日常と幸せを奪い取ってしまう。
事実それが起きてしまったんだ、と思いました。
それまで私は、まだ心のどこかで、「TVの中のことを見ている」「悪い夢を見ている」
そんなことを思っていました。
そして、今日。
久しぶりの、実に10日ぶりの学校がありました。
私が生活していた2号館は立ち入り禁止になっていて、卒業した3年生の教室で生活することになりました。
そして、「大地震で学んだこと」という作文を書きました。
私は、朝、某ニュース番組で、岩手のとある中学校で、卒業式を行ったというニュースを見ました。
制服を流され、ジャージ姿で卒業式に臨んだ生徒もまばらに、教室での卒業式が行われた後、避難所となっている体育館で、「故郷」の合唱が行われました。
合唱を聴いて、涙ぐむ女の人を見て、校長先生からうけとった卒業証書を手に微笑む卒業生を見て、私は鳥肌が立ちました。
こんなにも辛い状況の中で、それでも笑っている人がいる。
その人たちよりもはるかに幸せである私たちが、いつまでも落ち込んでいては駄目だ。
作文用紙2枚に、私は災害で感じたこと、被災した人たちから学んだことを、ありのままに書きました。
まだまだ元どおりの生活に戻ることは難しいかもしれない。
実際、これを書いてる間も、何度か余震が起こりました。
それでも今、私たちがやれることはたくさんある。
どれか1つでも、だれか1りでも、そのことに気付き、早く元どうりの生活にもどしてあげたいです。
そして、この地震で学んだこと、感じたこと、思ったことを、これからの人生の礎とし、生きていきたいと思います。
この震災で、お亡くなりになられました皆様のご冥福を、心よりお祈りしております。
3月22日 衣恋
先日起こった東日本大震災。
宮城や岩手、福島の方に比べれば「なんだそのくらい」というくらいですが、私の住む茨城も、被災地の一つです。
3月11日午後2時48分頃。
授業参観だった私は、体育館でクラス毎の発表を見ていました。
調度、最後のクラスの発表も終盤に差し掛かった頃でした。
揺れている。
もともと地震の多い地域なので、さほど気にすることもない大きさの揺れでした。
みんな、「誰かが揺らしているんだろう。」とぐらいにしか思っていませんでした。
しかし、揺れは長く、さらに徐々に大きくなっていきました。
流石に変だと思った矢先、バスケットゴールや電球、天井の骨組みが大きく揺れ、誰かが開けてくれたドアから、みんな一目散に逃げました。
その時、一番ドアに近い、校庭側の列の端に座っていた私は、混み合う階段ではなく、1メートルほどの高さから地面へと飛び降りました。
瞬間、ぐらりと視界がぶれたかと思うと、地面が揺れているとハッキリ分かるほどの大きな揺れが起こり、立っていられなくなった私はその場にしゃがみ込みました。
呆然としていると、誰かが混乱の中、「体育館から離れろ!」と叫びました。
友達に手を引かれ、なんとか校庭の中心まで走った私は、築数年のまだ新しい体育館の窓が大きい音を立てて揺れているのを見ました。
学校中の生徒、先生、調理委員の方々が身を寄せ合って恐怖に耐え、親や子の無事を確認している最中、2度目の大きな揺れが始まりました。
私は友達と手をぎゅっと握り、揺れが収まるのを待ちました。
私も含め、女子数名が泣いていました。
この地震は本物なんだ、これは現実なんだ、認めなきゃいけないんだ、家族は大丈夫だろうか。
最悪の事態までが頭を駆けめぐりました。
幸い、同居中の祖母は老人ホームに行っており、無事でした。
ぼたんのお母さん、ぼたん、柚子季と一緒に家路に着いた私が目の当たりにしたのは、さっきまで平穏で普通の時間が流れていた街が、崩れた姿でした。
家々のへいや看板、店の商品は倒れ、ガラスや窓、地面は割れ、陥没し、信号は消え、電線は切れ、街は混乱に陥っていました。
なんとか家族と合流した私は、めちゃくちゃになった家の中を見ました。
食器は割れ、自分で作った思い出が詰まったお皿が割れていたのは泣きそうになりました。
余震が絶え間なく襲ってくる恐怖と、12時間もの長い夜をロウソクの小さくて頼りない明かりだけで過ごすのは、とても心細く、不安で仕方在りませんでした。
翌日、私は弟と中学校での給水に並びました。
すでに校庭を一周し、千人はそこにいました。
大きな時計も、地震が起きた時間ぴったりで止まっていました。
皆が手に手にとった新聞には、地震がもたらした、認めざるを得ない現実が書いてありました。
「街が消えた」
心が痛くなりました。
一瞬のうちに、平和な日常と幸せを奪い取ってしまう。
事実それが起きてしまったんだ、と思いました。
それまで私は、まだ心のどこかで、「TVの中のことを見ている」「悪い夢を見ている」
そんなことを思っていました。
そして、今日。
久しぶりの、実に10日ぶりの学校がありました。
私が生活していた2号館は立ち入り禁止になっていて、卒業した3年生の教室で生活することになりました。
そして、「大地震で学んだこと」という作文を書きました。
私は、朝、某ニュース番組で、岩手のとある中学校で、卒業式を行ったというニュースを見ました。
制服を流され、ジャージ姿で卒業式に臨んだ生徒もまばらに、教室での卒業式が行われた後、避難所となっている体育館で、「故郷」の合唱が行われました。
合唱を聴いて、涙ぐむ女の人を見て、校長先生からうけとった卒業証書を手に微笑む卒業生を見て、私は鳥肌が立ちました。
こんなにも辛い状況の中で、それでも笑っている人がいる。
その人たちよりもはるかに幸せである私たちが、いつまでも落ち込んでいては駄目だ。
作文用紙2枚に、私は災害で感じたこと、被災した人たちから学んだことを、ありのままに書きました。
まだまだ元どおりの生活に戻ることは難しいかもしれない。
実際、これを書いてる間も、何度か余震が起こりました。
それでも今、私たちがやれることはたくさんある。
どれか1つでも、だれか1りでも、そのことに気付き、早く元どうりの生活にもどしてあげたいです。
そして、この地震で学んだこと、感じたこと、思ったことを、これからの人生の礎とし、生きていきたいと思います。
この震災で、お亡くなりになられました皆様のご冥福を、心よりお祈りしております。
3月22日 衣恋