みなさんこんにちは!
ご機嫌いかがですか?
僕が一番美しいと思ったバスクで、しかも人口がわずか6万人のイルンという小さな街(東京育ちの僕には)での生活は、大都会の東京の浅草の華やかさと喧騒の中で育った僕には、一から十まで何もかもが新鮮でした。
何しろイルンと浅草は、共通点と言えるものがゼロなのです。(浅草っ子は盛大に音を立てて食べるのが男らしいと考えますが、こちらでそんなことをしたら、野蛮人と思われます。笑)
若い頃にパリとロンドンに住んだことがありますが、同じヨーロッパと言っても、パリやロンドンは大都会ですから、東京もパリもロンドンも、大都会に共通した一種の華やかさや喧騒がある代わりに、自然に乏しく、イルンは人口6万人の小さな街で、大都会にある華やかさや喧騒が無い代わりに、美しい海や山に囲まれているので、僕にとってはまるで別世界でした。
イルンに来てから1ヶ月くらいは、開業準備を進めながら、休みの日は、みんなで美しい海に行って過ごしていたので、平和で穏やかな日々が続いていました。
どんどんバスクが好きになっていきました。
ところがイルンに来てから、ちょうど1ヶ月ほどしたある日、テレビのニュースを見ていた時に、「マドリードで、政府の要人が、ETA(エタ)が仕掛けた爆弾で暗殺されました。」というニュースが流れたのです。
ETAの意味もわからなければ、一体どういう経緯で、政府の要人が暗殺されたのかも、僕には全く理解出来なかったので、隣で一緒にニュースを観ていた妻に「このETAって何なの?」と聞きました。
妻の説明は次のようなものでした。
妻「ETAは、バスクの独立を求める過激派組織のことで、こうやって時々スペイン政府の要人とか警察官を暗殺しているのよ。」
僕「この平和そうなバスクに、人を殺す過激派組織があるの?」
妻「フランコ(1939年~1975年までスペインを支配した独裁者)が、バスク人に対して、バスク語を話すことを禁じたり、いろいろな弾圧を加えたから、バスクの自由と独立を目指す人たちが、1950年代の終わりころに作った過激派組織がETAなのよ。」
妻の説明を聞いて、この美しいバスクに、まさか40年も前から、今もなお人を暗殺し続けている、過激派組織が存在するなどとは、とても信じられませんでした。
しかし一方では、日本民族が、死んでも他国から支配されたくない、という精神から、太平洋戦争の時に、神風特攻攻撃までやったことを考えますと、日本民族と似たような精神(サムライ精神のようなもの)を持ったバスク民族なら、フランコ総統のバスク民族弾圧に対して、テロを起こしてでも、自由のために徹底的に戦う精神は、日本人として理解できるような気がしました。
ちなみに「ETA」は、バスク語の「Euskadi(エウスカディ)・Ta(タ)・Askatasuna(アスカタスナ)」の頭文字を取ったもので、意味は「バスク祖国と自由」という意味です。
テレビのニュースと妻の説明で、ETAの存在を知ってから、ETAがどれだけ人々に恐れられているか、ということを知るまでに、それほど時間はかかりませんでした。
スペイン語を一日でも早く覚えたかったので、イルンに着いてからは、語学学校に通う以外にも、積極的にテレビのニュースを聞いたり、新聞(この新聞は、「El DIARIO VASCO」と言って、主にバスク州のニュースを取り扱っている新聞です。)を読むようにしていたので、じきにETAによる暗殺事件が、日常茶飯事だということがわかりました。
話しは少しそれますが、実はスペイン語を一日でも早く覚えるためにある決断をしました。
それは僕の頭の中にあった、英語の知識を全て消し去る(忘れ去る)ことでした。
僕は多くの人のように、外国語を同時に二つも三つもマスターできるような器用さは、持っていないので、僕の場合、一日でも早くスペイン語をマスターするためには、スペイン語の知識がスムーズに頭の中にインプットされるように、英語の知識(ロンドン時代に、妻と知り合って以来、日本で暮らしていた時も、妻との会話はずっと英語でした。)を全て脳から消し去って、その空いたスペースに、スペイン語をインプットしなければなりませんでした。
英語を忘れたおかげで、スペイン語の方は1年くらいで、けっこう話せるようになりました。
もっとも、スペインでは英会話の教師になるか、外資系企業で働く以外には、英語を使う機会はほとんどないので、英語を忘れても困ることはありません。
少し話しがそれましたので、話しをバスクのテロリズムに戻しましょう。
僕がイルンに来た頃は、ETAはだいたい一ヶ月に一人くらいの割合で、バスクかマドリードで暗殺を繰り返していました。
1950年代から1980年代頃までは、ETAは純粋に、バスクの敵(スペイン政府の要人やETAを取り締まる警察官)だけを暗殺していたので、昔はバスクの中にも、ETAを支援したり共感したりする一般市民も多かったそうですが、1990年代に入って(ちょうど僕がイルンに来た頃)、ETAはバスクの一般の企業家たちに、多額の義援金を要求するようになり、義援金の支払いを拒絶した企業家たちには、「すぐに義援金を支払わなければ殺す」という脅迫状を送り付けるようになって、それでもETAの脅迫に屈せずに、義援金を支払わないまま、バスクで会社経営を続けた企業家たちのほとんどが殺されるようになったのです。
僕がイルンに来た頃には、バスクの企業家たちだけではなく、バスクの一般市民たちも、そんな暴力団のようになったETAを恐れるようになっていました。
続きは次回のお楽しみに!
それではまた来週の金曜日にお会いしましょう!
みなさんお元気で!
スペインのイルンより心を込めて、、、
水谷孝