いろんなカンパニーで芝居をやり

いろんなカンパニーの芝居を観る


そんな、毎日。

ふと、芝居とはなんなのか?演技とはなんなのか?

考えたりする。


演技。技を演じる、または演じる技術。

どうも通説では日本のストレートプレイは

築地小劇場から始まっているということらしい。

スタニスラフスキーシステムとかいうリアリズム演劇とかいうものから始まったのだと。


僕はこのリアリズム演劇とかいうものを少しばかり疑っている。


というか、リアリズム演劇という名のもとに集う日本人の多くが

リアリズムとナチュラリズムの狭間、ふわふわと漂っているようにしか見えないのである。


リアリズムとは本来、本質的なもの現実を正しく反映するために非現実なものも許容されるものである。

ナチュラリズムとは瑣末な事実の描写にこだわり本質を見失いがちである。


リアル・ナチュラルとくくってしまうから横文字に疎い私達日本人の多くは

勘違いをおこしてしまうのではなかろうか?


ナチュラリズムを否定しているのではない。

ましてやリアリズムを推奨しているのでもない。



しかし、舞台なのである。

2時間。場合によってはさらに多くの時間、窮屈な思いをして観る舞台。

他の芸術と違い、好きなときに好きな時間だけ鑑賞できるものではなく

そこには上演時間という制約が発生する。

その制約の中で

どれだけ惹き寄せられるか

どれだけ感動させられるか

それが大切なのだと私は信じる。


ひと時でも退屈させたら終いです。


形あるものはその形が確立された瞬間から腐り始める。


演劇論など愚の骨頂である。

確かにそれを確立せしめた先人達には多大な敬意を表するが

それはあくまでその人自身のものでしかないのではなかろうか?

そして、彼等もまた生涯それを創造しなおし生きていたのではないかと思う。


確かに先人達の教えに耳を傾けること

他人の意見を受け入れることはもっとも大切なことであろうと思う。

それにより、より多角的に自らを客観視し己を知ることが出来るからである。



だからこそである。

自分を信じることがどれだけ大切か。



他人の意見にばかり頼っていると思考を失う羽目になる。

私達、役者は人形ではない。

今ここに生きている人間なのだ。


十人十色。

舞台。

それぞれの生き方が交錯し、表出し、この瞬間、輝く。

だからこそ演劇は面白いのである。



森下庸之