ホームの上を歩いていると、たくさんの人が電車を待っています。その中を平気 で通過していく鳩が一羽。 かつて鳩は、人間に限らず、自分より大きな動物が群れているところに、何の警 戒心も持たずに一羽でひょこひょこ進んで行ったりしませんでした。 「どうせ気づかないだろうから」産地を偽装したり、「手をつけていないから」 しゃぶしゃぶ肉を何百回も使いまわしたり。 かつて舞台の上のブラックコメディは、現実社会のゆがみを極端に表現すること で批判し、笑い飛ばすことで成立していました。 「孤独だったから」雑踏にトラックで突っ込んでみたり、「殺してみたかったか ら」親を殺してみたり。はたまた「電車のドアに挟まれたから」イライラして人 を斬りつけたり。 かつて舞台の上の不条理は、現実の理不尽さを越えて起こる凝縮された現実だっ たり、現実の延長線上でした。 いまや、舞台の上の意外性は、現実の突飛さにまったく敵いません。 演劇は社会に必要だとすれば、その存在意義を常に考えていく必要があります。 シェイクスピアが言うように、 「演劇は時代を映す鏡」だとしたら、 人間に無頓着な鳩や、食べ物の使いまわしや、こっけいなほど衝動的な殺戮マシ ーンを描いたりする必要があるでしょうか。 それは現実の一面的な批判に過ぎないでしょう。 私たち、演劇という、ちょっと人には知られていない、おトクな時間の過ごし方 を知っている人間は、もっと本質的なところに目を向けることが出来るはずです 。 人は恋をします。したくなくても恋をし、人を愛し、愛されたいと思います。あ るいは歯がゆい思いをし、うまくいかない現実を憂い、もどかしさのとりこにな ります。 そこに普遍なものや、変わり行くものを見つけ、取り出してじっくり見つめるこ と。静かで、根気の要るこの作業こそ、演劇の密かな楽しみであり、可能性のひ とつだとも思うのです。 多和田真太良