五年前
大きな地震がありました。

東日本大震災

あの日、一日、今でも忘れられません。

余震が続く中、お芝居なんてしていてよいのだろうか?
直ぐ様、被災地へかけつけて
何かお手伝いすることはできないだろうか?

でもその時、僕の中には俳優としての興味もあったのです。

悲惨な原状なのはわかっている
それをこの目に焼き付けて
自分の人生の
俳優としての糧にしたいと

ひどいものです。

今まさに、命を賭して救命活動を行っている人々
寒さと痛みに震えながら瓦礫の下に埋まって必死に救いを求める人々
家族と離ればなれになり、泣いている人々

そういった方々の前で僕はいったい何をするというのだろう
僕にとってそれは興味の対象でしかなかった

それに気づいたときに
どうしても、被災地にいく勇気がもてませんでした
自分のエゴを引き連れてそこにいくことはどうしても出来なかった

僕の第一の欲求は被災地の復興や
そこに住む人々を助けることではなく

その現状を焼き付けたい
経験をつみたいというところだったから

正直、ボランティア活動をしている方々のことを偽善者だとも思っていた

そこへいく時間があるのなら
今、自分がそこで与えられている仕事を全うし
その分を義援金として送ればよいと

外から見れば自分がどれだけ
つめたい人間なのかよくわかります

しかし、私はそれも人間だと
それが私なのだと
ことさら自己批判することはありませんでした



今また、熊本で大きな地震がおきています

地震があったその日から
TRASHMASTERSの連絡網はしきりになり続けています

「なにかできることはないか」
「おれは熊本へいく」
「いやまて、今いっても迷惑になるだけだ」
「義援金をつのろう」

いろんな意見が出ています



どこかで助けを求める人がいます
どこかで泣いている人がいます
どこかで理不尽な扱いを受けている人がいます
しかし触れられないものには触れられません

私にとっては自分の生活を全うすることが一番大切なことなのです。

しかし

しかし

目を向けること
手を貸すことのできる
余裕を
今は少しは持ち合わせているようです

大小も長短もない
どんな関わり方でも良い

目を閉じ、耳を塞ぐことだけはせぬように

それは生きているということではないから



森下庸之