「チョベリバ、チョベリグ」「KY」「ディスる」
とかいう、若者言葉(と思っているおじさんは)をあまり好きではないのだけれど
それをうみだした彼らは、彼女らは
既存の言葉では伝わりきらない自分の気持ち
そのもどかしさを解消するために、よりよくそこに自分が自分でいられるために
作り出したのかもしれないと
ふと考える



個人的には言葉ってのは概念の集積体だとおもってる

話の脈絡によって
それは揺り動かされ
あるものはその過程で落ちていき
必要とされるものだけが
あなたと私の間で共有される

それは荒れ狂う海へ出帆し貿易する
商人と航海士の物語だ

難破し荷を放り投げだされた航海士は
商人と取引することができない
彼らは荷を要求する

航海士はもといた港に戻り
損を取り戻そうと、さらに多くの荷を積む

運よく荷をすべて送り届けても
すべてが買い取られるとは限らない

買い取られたもの、それが概念であり
あなたと私の間で価値あるものとして共有される言葉だ

彼は今後、その商人と取引するときには
売ることができたそれを荷に積むだろう

でも、航海士は本当はもっと違うものを売りたかったのかも知れない

自分のより良いとおもっている
彼方の国ではない品を届けたかったのかもしれない

それをどのように彼らに価値あるものとして受け取ってもらえるか

私がそこにいる