だだっ広い野原で


花をつんでいると、


太った男がやってきて、


「名を名乗れ」と


いった。





名乗ろうと思ったんだが、


ひさしく名乗っていなかったので、


なかなか名前がでてこない。


のどもとまでは出てくるんだが、


そこから、するりと、逃げて


いってしまう。





けれども、黙ってるわけにも


いかんから、逆に太った男に、


「あなたは?」


ときいてみたんだが、


彼は誤解して、


わたしの名前を


「あなた」と勝手にきめこんでしまった。





それ以来、


その界隈でわたしは


「あなた」とよばれるようになってしまった。


わたしは必死にじぶんのなまえを


さがしているのだけれども、


図書館にも博物館にも


どこにも、ない。





親も友人も恋人も


なかなか思い出せないと


いう。


そんなにむずかしい名前だったとも


思えない。





あなたから


あなたとよばれても、


けっきょく、わたしではないのだから、


なんだかわたしが世界から


消えたような気がして


最近は、ひどく不安な毎日を


おくっている。





世界のわたしがなくなれば、


わたしの世界はなくなりますか、


と新聞に投書もしてみたけれど


掲載される気配はいっこうにない。





いまは


あのふとった男が


うらめしくて、ならない。





あのとき、つんできた花は


色も鮮やかにはなばなしく


咲きほこっており、


あのふとった男に


みせてやりたい気がしないでも


ない。