はい、


今回はイーグルスのホテルカリフォルニアを


訳してみます。





<THE EAGLES, HOTEL CALIFORNIA>



Last thing
I remember, I was

Running for the door

I had to find the passage back


To the place I was before


'Relax
,'said the night man,

We are programmed to receive.

You can checkout any time
you like,

but you can never leave!




 思い出せるのは、ぼくが

 扉に向かって走っていたことだけ。

 なんとしても帰りたかったんだ、

 もといた場所に。

 「落ち着けよ」って、
夜警がいう。

 受け容れることになっているのさ。

 いつだって好きなときに、チェック
アウトすればいい。

 だが、立ち去ることなど到底できない。



@the night man;夜警だそうです。夜勤の男。夜働きの男とも。

でも、夜の男、あちら側の男という象徴的な意味合いも含んでいそうですね。

汲み取り屋、なんて意味合いもあります。

ただここは境界線的な場所なので、門番のような夜警がいいかと思われます。



@be programmed to...;~するよう組み込まれている、方向づけられている。

「We」っていうのが、ホテル
側の人間たちで、

「おれたちはお前をいつでも歓迎するぜ」って意味なのか、

それとも<人間一般>の運命みたいなものを指して、

「おれたちはそういう運命にあるのさ」って感じなのか迷いました。

双方の意味、含まれているのかも知れない。








ホテル・カリフォルニア

すごく不思議な物語だ。

そのホテルは、ひとつの異界である。



物語は、「竹取物語」の頃から、

基本的に「<異界>との交通」を

その駆動力とするというのだが、

異界にアクセスしたあとで、

帰ってくるのか、帰ってこ(られ)ないのか、

では、ずいぶんと話が違ってくるような気がする。



浦島太郎は、たしか「日本書紀」だったか「風土記」に

すでに記されていたはずで、そのときの浦島は

帰ってこず、そこで仙人になってしまう。

ところが、どこかでおそらく明治あたりだろうけれど、

帰ってきて、遊んだツケを支払うという教訓性が

付与されるようになる。

神話がとたんに説教臭くなる。



このホテル・カリフォルニアにアクセスした場合、

チェックアウトはできても、去ることができない。

不可逆の場所で、「ぼく」はたゆたうことになる。

この不可逆な場所でのたゆたい、というのは

幻想文学にはけっこう多くみられることだ。

帰る・還ることはできないのだが、

進みきってしまうこともできない


(トドロフの幻想文学の定義「日常と非日常のためらい」

を思い出したのだが、これは多くの幻想小説をカバー

できていないという批判もある)。

そこで進みきってしまえることが可能であるならば、

つまり意味論的場をふみこえると

幻想文学はファンタジーになる。


そうだなあ、たとえば、カフカの『変身』や


ゴーゴリの『鼻』がその例。



ホテル・カリフォルニアの歌詞の終わりを

訳してみて、すぐにカフカの一連の文章を

思い出したのだが、

カフカの「城」も「法の前」も「判決」も

そもそも異界に対してアクセスすらさせてもらえない

(何を異界とするかはあるのだけれど)。




カフカとホテルカリフォルニアは


どこかで、つうじて、いる。