三郎ァーストシーズン





について


なぜ、ファーストシーズンが


いちばんおもしろかったのかを


かんがえてみたいと


おもいます。






まずは、


古畑の「服装」


に注目してみましょう。

この「服装」によって、

シセカンドシーズン以降の事件よりも

ファーストシーズンの事件の方が

〈味わい〉が出るのです。



セカンドシーズン以降、

古畑の服は〈黒一色〉になってしまったが、

ファーストシーズン時は、

古畑は事件の〈色〉に合わせて

シャツの色をコーディネート
していた

事件が変わるたびに、

古畑のシャツの色も変わる。

「ピアノレッスン」では、

〈白〉のシャツを着込むことで

クラシカルな出で立ちになるし

(ピアノの鍵盤色でもある)、

「汚れた王将」においては鍵となる

将棋の色がシャツの色と響きあっている

(または
旅館の庭園とか)。



古畑はひとつひとつの事件と出会うたびに、

「その」事件と調和する異なるシャツを着込み、

「その」事件における「その」古畑任三郎を

織り上げていった


だから、「汚れた王将」の「古畑任三郎」と

「ピアノレッスン」の「古畑任三郎」は

シャツの色によって〈分節=選別〉され、

より事件そのものの〈出来事色〉が強まることとなる


事件はそのときその場で起きてその古畑任三郎がきた

〈一回的〉なものとなる。



だけれども、セカンドシーズン以降、

古畑は黒単色になってしまった。

黒が〈制服〉化されることで

(完全な記号であるためには

制服は一貫されなければならない)、

「古畑任三郎」は事件を超えた

〈超然的〉なものになっていったけれど、

「古畑任三郎」という「記号」は

完全に閉じてしまった。

彼は事件から切り離され、

どの事件においても

黒い
スタイルを崩さないという

複製可能な古畑任三郎になってしまった

(複製古畑はモノマネという形で

マスメディアにも流通していった)。



シャツという細かいことに過ぎないのだが、

ファーストシーズンの〈着替え〉る古畑と

セカンドシーズン以降の〈着替えない〉古畑では

事件の出来事色の強弱が違う。

もちろん古畑任三郎がファーストシーズンだけで

終わっていたらこんなことは思わない。

彼が事件を〈着込ま〉なくなってしまったときに、

遡行する形で、

事件を〈着込ん〉でいた

「あの」古畑や「この」古畑が


みいだされるのである。





過去とは、


つねに、さかのぼることで、


わたしだけのできごと、として


みいだされる。




アウラ(出来事性)は

遡行する形で見出されるし、

遡行される形でしか見出されえないのだ。