夢をみることと映画をみることがパラレルであり、


映画館のスクリーンには

わたしたちの無意識の欲望が

投げかけられているとするのであれば、

映画をみながら眠る、

つまり欲望を遮断するというのも

ひとつの映画の見方
であり、

新しいまなざしの獲得ともいえよう。



眠るための映画の条件としては、

物語の起伏がゆるく、

ワンシーン=ワン
ショットのようなものが

望ましい。

まず筆頭に上がるのがタルコフスキー

タルコフスキーは間違いなく眠る。

音声による刺激や視覚による

刺激が少ない所為もあるし、

彼が好むしたたり落ちる「水」の主題、

またはその主題が霧状に拡散した

「曇天」の主題が

やさしく睡眠を誘う装置にも

なっているといえるだろう。

液状化し、たえずあらゆるところに

侵食するくっきりとした形を

もたない夢のようなイメージ
が、

みずからの「夢」との移行を

短絡的なものにしてしまう。

「鏡」をみている途中で、

眠りにおちいっても、

ひとは「鏡」を見続けていると

確信しているに違いない。



タルコフスキーの次点は

アンゲロプロスでどうだろう。

アンゲロプロス映画のすさまじい点は、

途中で眠りに陥り、しばらく経って目覚めても、

「まだやっている」点だ。物語が続いているのだ。

たいてい目覚めると

ビデオの巻き戻しの音が鳴っているはずなのに

これは驚くべき事態だ。

何しろ三時間強あるのだ。

しかもさらに度肝を抜かれるのは、

画面に変化がみられないということだ。

静止画なのかと驚きもする。

これは、見ることに刻印をうがとうとすることの

歴史的事態ではある。

独特の振幅を帯びた時間性=歴史性に

執着するまなざしと

向き合わざるをえないというものだ。

アンゲロプロスの主題も

やはり「曇天」が主題となっている。



次にルイ・マルの「鬼火」を上げてみたい。

好きな映画ではない。

サティのグノシェンヌがたえず鳴り続けていた

ということしか覚えていない。

なにしろ見ている間、

ずっと半覚醒状態にあったのだ。

本当にみたのかどうかさえ定かではない。



他にもジョナス・メカスの「
リトアニアへの追憶」や

ハンネケの「城」をあげていいかも知れない。



「見ない」という事態が逆に「見る」ことの問題と

照応していることがある。

夢というのは現実にあるものを「見えな」くすることで、

意識下にあるものを「見る」作業でもあるが、

スクリーンに浮かび上がる夢をみながら

眠りにおちいるひとは

いったいどこに

いざなわれて

いくのだろう。



ちなみに眠る映画の対極にある

目覚めの映画は

ヒッチコックや

クストリッツァあたりでどうだろう。