ハゲタカに食い荒らされ、

 海の底の動物や花で

 びっしり覆われるという姿で、

 彼は自分のいない祝賀の

 かすかな花火の音を

 聞いていた。

 おふくろよ、

 もう百年になるんだ、

 いや驚いた、

 もう百年たったんだ、

 光陰矢のごとしというが。



  ガルシア=マルケス『族長の秋』






彼女いない歴=年齢・26歳の彼女できるまで日記



 *



【Ⅰ メキシコ】

《カルロス・フエンテス「アウラ」》




上田秋成「蛇性の淫」「浅茅が宿」と

交響しあう二人称異界幻想小説

(フエンテスがパリで溝口の『雨月物語』を観、

なおかつ『雨月』の翻訳も読んでいる)。

オクタビオ・パスが

「不気味で完璧な幻想小説」と評した

この中篇は、前身として

「トラクトカツィネ」というごく

短いものも書かれている。

似た感じの短篇には

アルフォンソ・レイエスの「夕食会」がある。

フエンテスの短篇「チャック・モール」も

熱気のある肉質感と侵食する水のイメージが

たまらなくぞっとするが、

「女王人形」という

「チャック・モール」女版ともいえる

絶品もある(チャックのジェンダーは不明だが)。

ちなみに岩波の木村榮一訳が有名だけれども、

ソレニウム叢書安藤哲行訳で

アウラの幻夢の塊に嚥み込まれるのも

また一興。こっちは「おまえ」だ。





【Ⅱ ペルー】

《リベイロ「ジャカランダ」》








彼女いない歴=年齢・26歳の彼女できるまで日記






ラテンアメリカ死者蘇生譚といえば

すぐに思い浮かぶのは

ルルフォの『ペドロ・パラモ』だが、

この短篇はルルフォの土俗性に

映画『ゴースト』のロマンも盛り込んでいる。

リベイロは「記章」という不条理短篇も書いている。

「分身」の奇想も面白い。





【Ⅲ アルゼンチン】

《ボルヘス「記憶の人、フネス」》





彼女いない歴=年齢・26歳の彼女できるまで日記




記憶の人、フネスはありとあるものを記憶する。

いま見ているpassionflowerと一秒後のささやかな

変化の起きたpassionflowerは

まったく違うものになっている。

忘却という能力をなくしたフネスには、

記憶は、苦痛でしかない。

フネスが一日をrecallするということは

その一瞬一瞬をはじめから終りまでrecallすることであり、

よって一日を思い出すのに「丸一日」かかってしまう。

フネスにはまとめる力、普遍的概念がないのだ。

記憶力がよすぎるというのは

結果としてそういうことになってしまう。

これはボルヘスに投げ縄をかける

ひとつの理解しやすい枠組みにも

なっている。

全一の完璧さが、完璧な全一さではないということだ。

全一の完璧さを誇るバベルの図書館を

想い出してほしい。

全一の完璧さが完備されているあまりに、

司書たちは、完璧な全一さを埋められず、

巡礼の旅を永遠にし続けていることを。

すべてある、ということは完璧ではあるが、

全一ではないのである。

吾輩と名乗るネコが、リアリスティックに現実を語るなら

24時間のものは24時間かけて語らねばならないと

いっていたが、

フネスに与えられているのはまさにその苦難だ。

でもなにより面白いのは、

フネスが

なんの知識ももたない

一介の無名なインディオ

であるということだ。





【Ⅳ アルゼンチン】

《フリオ・コルタサル「占拠された屋敷」》




この短篇をコルタサルが出版社に持ち込んだ際、

そこにいた編集者は誰であろう

ボルヘスそのひとであった。

そのボルヘスが完璧な短篇と評した当短篇は

ラテアメ・アンソロジーには必ず入っている

といってもいい。

ラテアメ翻訳者三人衆(木村・鼓直・内田吉彦)の

訳を読み比べてみるのもまた優雅なひとときだ。

当短篇は、三分もあれば読めてしまう。

三分で屋敷は占拠される。






【Ⅴ メキシコ】

《オクタビオ・パス「波と暮らして」》




批評家パスの短篇というだけでも珍しい。

トドロフ風にいえば、「鼻」や「変身」のように

幻想文学としてぎりぎりのもの。

だが、波と恋愛に陥り、同棲し、破局するまでの

恋愛小説として読むことだって可能である。

ちなみにパスは芭蕉の「奥の細道」を翻訳して

いるが、誰かにいっても誰もパスを知らないので

驚いてくれないのが哀しい。





【Ⅵ チリ】

《ホセ・ドノソ「閉じられたドア」》




ラテアメの「マッチ売りの少女」。

または睡眠幻想文学の系譜に連なる。

ドノソの『夜のみだらな鳥』は

ひたすらに長く、フリークス満載なので

だんだん現実原則がうすらいでいくが、

それでもラストにどんでん返しを

仕掛けることもなく、

一気呵成にたたみこんでしまう手際は

『百年の孤独』とともに

小気味よいものがある。





【Ⅶ ウルグアイ】

《フェリスベルト・エルナンデス「水に浮かぶ部屋」》



豊かな水流のごとくリリシズムにあふれ、

その叙景はあまりに美しい。

グリーナウェイ『数に溺れて』や

タルコフスキーの滴る水のイメージに

魅かれるひとに。





【Ⅷ ウルグアイ】

《オラシオ・キロガ「羽根枕」》




生後すぐに父親が事故で他界、

その後も母親、親友、妻子を

事故や自殺で次々と失くしたキロガ。

蛇にかまれ、足がはれて、死につつある過程を

淡々と描いた短篇「流されて」、

アル中の父親が娘を虫と間違え、

棒でたたき殺す救いようのない短篇

「酒つくりの男たち」など、

絶望的なものが多いが、

当短篇は自然主義吸血鬼小説ということで

注目に値する。

ラテアメ風土を存分に生かした、

ラテアメの、ラテアメ作家による、

ラテアメのための、

吸血鬼なのだ。

A・K・トルストイ「吸血鬼の家族」との

決定的違いはまさにこの文化的差異にある。

つまり、極暑の吸血鬼と

極寒の吸血鬼との差異なのである。





【Ⅸ アルゼンチン】

《アドルフォ・ビオイ=カサーレス

「烏賊はおのれの墨を選ぶ」》



ラテアメのスターマン。

ボルヘスが形而上の幻想小説を書く一方、

カサーレスは形而下のSFじみたものを書く。

『モレルの発明』はヴェルヌの『カルパチアの城』

と仕掛けが似ていると私淑する先輩がいうので

読んでみたらたしかに似ていた。

が、語り口がおもしろいのは

一人称の「モレル」の方だと。






【Ⅹ アルゼンチン】

《レオポルド・ルゴーネス「アブデラの馬」》




ブルガーコフの『犬の心臓』を思い出したが、

こっちの馬の方が悪辣。



 *



 だが、死者たちの横行には

 しばしば夢を破られた。

 一族の血を絶やすまいとして

 自然の掟と戦うウルスラ、

 偉大な文明の利器という

 夢を追いつづける

 ホセ・アルカディオ・ブエンディア、

 ひたすら神に祈るフェルナンダ、

 兵戦の夢と魚の金細工のなかで呆けていく

 アウレリャノ・ブエンディア大佐、

 ばか騒ぎのさなかの孤独に苦しむ

 アウレリャノ・セグンド。

 彼らの声をまざまざと聞き、

 激しい執念は死よりも

 強いことを知った。



  ガルシア=マルケス『百年の孤独』