イベントで小池正博さんが詩的飛躍の話をされていて(詩のパイロットになること)、ふっと思い出したのが、『はじめまして現代川柳』の小池さんの解説で、現代川柳は個人的なことが世界にそのままつながっている、と書いたことで、川合大祐さんの句もそうだが、現代川柳はアニメ的・セカイ系的なところがどこかあるのではないだろうか。

個人的なレベルと世界のレベルが突然訳もなく一致してしまう(プラハまで行った靴なら親友だ/小池正博)。それは川合さんがイベントで話したフラクタルをいつも意識しているという話にも近いかもしれない。大きな雪の結晶を細かく小さく見つめていくと同じ形の無数の雪の小さな結晶が見えてくる。大と小の目もくらむような無限の一致。

現代川柳は製作者の製作の秘密のような話が展開されると同時に、逆に、消費者側の、こんなふうにも消費されてしまうという、消費の観点という話もあるのかもしれない。例えばどうしてこんなふうな言語的暴力が整然とまかり通るのか、とか。その暴力性が他の文化とどう共振するのかとか。

川合大祐さんは少しバートルビー性を持っていて、「世界が書きたいんです」とは言いながらも、決定的な喪失を感じ、未完に走り、いまだ巨大なモノリスような一句の途中だと言う。世界を挫折していくことが、「できればそうしたくないのですが」と言い続けるバートルビーにも似ていると思った。