古畑任三郎の松嶋菜々子の回を見返して当時とは感想が違い、田中美佐子の回と似てい妹(夫)さえ殺せば世界が一変すると思ったセカイ系殺人に近いのかなと思った。中森明菜は世界は変わらないとわかって殺したのが悲しかった。松嶋菜々子は世界は変わると思って殺したのに変わらなかったのが悲しかった

そばにあったのが鏡と犬の違いだったんじゃないか。松嶋菜々子は何度も鏡をみることで、私と世界を重ね、一致させていった。中森明菜は、犬といることで、私をずらしつつ、世界もずらしていった。ちなみに田中美佐子も鏡=自分の出演したテレビを見てうっとりしながら世界と私を重ねた。

初回の中森明菜の、なんにも書き込まれていない原稿用紙は今になってすごく意味が大事なんじゃないかと思う。松嶋菜々子は鏡に私を書き込みそれを答えとしたが、でも本当は、ひとは一枚の白紙を目の前にずっと未来を生きていく。私を書き込んでは消して、あしたの白紙といっしょに生きていく。

なんにもかかれていない古畑の初回の白紙の紙はすべてのころされた被害者の未来にこれから話すことのできないことばだったんじゃないかと思う。もうことばを話すことはできないけれど、でもあなたにわたしは話しつづける。いちばん最初にあなたはきっとわたしをみつける。

古畑のいちばん最初の回からずいぶん時代が変わったけれど、ネットが隅々まで行き渡って小さな声が拾えるようになったのは大きい。あの初回の白紙の紙に書いてあった見えないメッセージが本当に聞き取れる時代にまで来たんだと思う。最終回の妹の声を少し思った。

いまだに中森明菜のラストの、「犯人は上」って今泉に古畑が突き放すように言うのが、今まで中森に優しかったのになんでそんなこというんだろうと今でも考えるけれど(不可解なラスト)、でも考えてみれば、ひとはひとりで生きていく泣いても、という古畑のテーマのようにも見える。

オープニングで古畑がひとりでさいしょ話すように、たぶんひとは、ひとりで生きていく、が基本的なテーマなんじゃないかと思う。ひとを殺すことがあるかもしれないし殺されることがあるかもしれない。でもひとりで生きていく。するとひとりがふたりになるときがある。