我々は現実を必ず自分の仮想世界のフィルターを通して認識しているという動画が上がって来ました。
その説明を聞いているととても腑に落ちるのです。
ここの合気道の教えも理解しやすくなるのです。
目の前に広がる風景、触れるもの全ては自分が作り上げる仮想世界に対応していて、我々はリアルに接していても、無意識的に仮想世界の方を観て動いている。
リアルだけを感じるという極めて視野の狭い限られた現実をツギハギしてあたかも世界が繋がっているかのような景色を見せてくれるのはその仮想世界のなせるワザなのだということ。
そして今まで生きて来た経験によって得た考え方、思い込みというものによって、その世界は必ず自分に良かれ悪しかれその繋がった世界をさらに自分独自のものにアレンジさせる。
その仮想世界の中でその世界を主観的に見ている主体が私であり、そしてその世界を俯瞰的にも観ることもできる私もいる、、そして仮想世界を構築している無意識的な私もいる。
このことは何を意味しているのか、。
それは私とは仮想世界を認識するためのものであり、そして意識とは無意識の中から生まれてきた一部、、ということ。
つまり合理的に左脳主体で生活している現代であっても、ちゃんと右脳と連携してして生きている。
自分の頭の中には左脳と右脳が両輪のように存在しているのですから、当然と言えば当然なのでしょうが、それでも今の世の中は左脳の度合いが強く、とても窮屈なので、、右側に少しシフトするために、瞑想や禅などの方法が開発されて来たのだと思います。
成田伝合気道はその仮想世界の作り方のことを、また右脳を活性させるためのノウハウの集積した武道だということです。
そういう仕組みを知ってわかることが多くあります。
合氣道の稽古にしても、その着眼がなければ、順番と形に重点を置くだけのものになってしまうのです。
自分のみならず、相対する相手や、そこに存在する空間、時間に対して、思考、感情、感覚、それらを全ての質感をいかに認識し、どう振る舞ってしまうのか、そしてどう振る舞うのか、、を観ていくのです。
そこには必ずなんらかの見えないシステムが働いていてそのシステムの在り方を観ていくのです。
もしその時に見えてくる現象に対してコントロールするために、中心帰納や腰回り的なものをツールとして使うなら、それは中心帰納でも腰回りでもないのです。
もし仮にその働いているシステムの在り方の中で、問題などの不都合かあるのなら、自分を中心帰納、腰回りというツールで修正していくのです。
そのツールを使って自分の中の静寂を観ていくのです。
もし極意というフレーズを使うなら、中心帰納や腰回りが極意なのではなく、自分を修正することが、極意なのです。
大分、中心帰納と腰回りという言葉が世の中に浸透してきました。その分誤解や歪曲が起こるでしょう。
その度合いによって悩みも出てくるでしょう。
でも大丈夫です。^_^
迷われた方はこちらに来て本質的な中心帰納と腰回りを体験していただければと思います。
そして今度は迷いではなく、新たに問いが出てくるでしょう。
それを一緒に解いていくのです。
その方向性は決して間違っていないのです。
修行は続くのです。
\(^o^)/