自民党参議院議員会長選挙を通じて「参議院改革」を考える | 武藤貴也オフィシャルブログ「私には、守りたい日本がある。」Powered by Ameba

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国家主権、国家の尊厳と誇りを取り戻す挑戦!品格と優しさ、初志貫徹の気概を持って(滋賀四区衆議院議員武藤貴也のブログ)

 7月21日、参議院選挙は自民党の圧勝で終わった。しかしこの自民党圧勝は決して自民党に対する「積極的支持」だけではない。他の選択肢が無いために自民党に支持が集まった、言うなれば「消極的支持」も多くあったと私は思う。衆参の「ねじれ」が解消されたことは、確かに今の日本の政治にとってプラスの側面が大きいが、だからと言って自民党が好き勝手自分たちの政治をやって良いということではない。あくまでも自民党に課せられた使命は、国家国民の利益を考え、そのことに基づく政治でなければならない。

 そういう視点で今回7月30日に行われた自民党の参議院会長選挙を見ると、本当に国家国民のための政治を取り戻す方向に進んでいるのか、私にとっては疑問が生じる面もあった。

 今回の参議院会長選挙は一体何を基準に行われたのか。

 「参議院がどうあるべきか」という理念や政策は全く語られず、所信表明演説も行われず、最大派閥間の調整のみで決められた感が否めない。なるほど、各紙は「派閥政治の復活」と書いた。確かにそういう側面が大きかったのだろう。

 さて、参議院はどうあるべきか。先の参議院選挙で私も含め自民党が訴えた「ねじれ解消」だが、そのことの意味を深く議論しようとする見解は依然少ないように思われる。

 自民党が安定政権を保ち続けた戦後、参議院は「衆議院のカーボンコピー」との批判を受け続けてきた。参議院は衆議院で決定されたことをそっくりそのまま追認するだけだったからである。日本の国会は、衆参が「ねじれ」たら前に進まない、うまくいっても「カーボンコピー」との批判を受ける。従って、「参議院はいらない」という極端な意見までもが出されてしまう。

 しかし、問題の本質は、衆議院と参議院が政党間の足の引っ張り合いに終始してしまうという「政党政治」にある。つまり「政党政治」をとる以上、衆議院と参議院の過半数が与党で占められた場合、国会で決められる前、自民党内の議論で全ての結論が既に出され、あとは衆議院も参議院も与党はそれをひたすら国会を通過させるだけとなる。野党も同様で、判断の基準は、衆議院でも参議院でも自分の政党が有利になるように与党の足を引っ張ることだけになってしまう。確かにこれでは二院制を採用し二重のチェックをする意味が無い。

 ではこの問題を解消し、二院制をとる意味を見出す、つまり本当の意味で参議院を「良識の府(良識に基づき、中立で公正な審議をする場)」とするためにはどうしたらよいか。例えば、参議院議員は政党に所属することを認めない、あるいは参議院議員からは閣僚を出さないなどといったことが考えられる。これらは今殆ど議論されていないが、実は古くから提案されてきた。また大論争を呼ぶことになるかもしれないが、参議院議員は「選挙によって選出しない」という手法も有効かもしれない。

 そもそも戦前の日本は今のように「デモクラシー至上主義」ではなかった。つまり「民意」を絶対視する政治制度ではなかった。重要な課題を決定する場合、選挙によって選ばれていない人物達で構成される元老院や枢密院、そして御前会議の存在など、民主主義とは切り離された、いわば世俗とは一線を画す基準で物事を決定する制度を持っていた。つまり「デモクラシー」に「良識による歯止め」をかける制度が存在したのである。しかし今の日本では衆議院議員も参議院議員も選挙で選出され、言ってみれば両院とも「デモクラシーの産物」と言っても過言ではない状態にある。

 従って参議院の存在意義を見出すためには、例えばマスコミによって生み出された「風」や「空気」と呼ばれる「安易な民意」に歯止めをかけ、更には政党間の利己的な権力闘争から離れて、衆議院に対する公正なチェック機能を持つことを考えていくべきではないだろうか。

 この問題を議論する際、イギリスの貴族院が参考になる。イギリスの貴族院は選挙で選ばれるわけではないが、高度で公正な審議が行われており、国民的支持率が高い。国民によって選ばれているわけではないのに国民的支持が高いのである。この貴族院は、世襲貴族だけではなく、首相経験者などの一代貴族、裁判官経験者である法服貴族、聖職者である聖職貴族などからなり、日本の衆議院にあたる下院よりは権限は小さいが、下院に再考を促す議院としての存在価値は高いとされている。

 さて、話を元に戻すが、今回行われた参議院議員会長選挙は、今述べてきたように「参議院がどうあるべきか」を議論する絶好の機会であり、そういう意味で各候補者とも理念・政策を主張し争うべきチャンスであったと私は思う。しかし今回はそれがなされず、派閥間の調整で決定されたとすれば、それを選んだ集団は目的もなく代表を決定したいわば「烏合の衆」と言われても仕方がない。

 最後に、私も自民党の一員ではあるが、自民党の決定なら全て無批判に受け入れたり、擁護したりすべきだとは考えていない。発言すべきことは発言し、発信すべきことは発信する、そのことが自民党を変えていくことにつながると思う。また私たち議員は、自民党の一員である以前に衆議院議員として国家国民のために政治を行うべきだという視点を忘れてはならないと思う。