脱「ダチョウの平和論」 | 武藤貴也オフィシャルブログ「私には、守りたい日本がある。」Powered by Ameba

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国家主権、国家の尊厳と誇りを取り戻す挑戦!品格と優しさ、初志貫徹の気概を持って(滋賀四区衆議院議員武藤貴也のブログ)

 「原発は即ゼロがいい」「核燃料サイクルも今、やめたほうがいい」。既に終わったが、東京都知事選挙の際、かつての総理小泉純一郎氏は公衆の面前でこう大声で訴えた。確かに知事選は小泉氏の推薦する細川候補は敗退したが、「脱原発」の訴えは今なお紙面を賑わし、日本全国で響いている。

 小泉元総理の「脱原発論」の最大の根拠は、「核廃棄物の最終処分場が無い」という点だ。しかし私は、かつての総理の一点に争点を絞った選挙手法の危うさを指摘した上で、氏の主張の問題点を本稿で浮き彫りにしたい。

 確かに最終処分場は、世界中で北欧を除き明確に決まっている国は無い。しかしそれは住民の反対があるからだけではなく、高レベル廃棄物の放射能レベルが自然状態に戻るのに10万年かかるとされてきた期間が、もっと短縮できる技術が確立されようとしているからだ。

 例えばその10万年の半減期は、使用済み核燃料をプルサーマルで燃やすと8000年に短縮され、更にこれを次世代型高速増殖炉で燃やすと、驚くことに300年にまで短縮される。そして同時に高レベル廃棄物の量も7分の1に減少することがわかっている。300年にまで短縮されれば十分人間が管理することが可能となるだろう。つまり私がここで主張したいのは「科学は進歩する」ということだ。

 こうした事実が科学的に証明され、現在米国もフランスもそして中国もインドもロシアも、そして韓国も2025~30年実証炉運転開始を目指して再び開発を行っている。日本の周辺諸国を加えて、世界中で再び高速増殖炉の開発研究が進められているのである。

 こうした前置きをした上で、更に一般的な「脱原発論」が抱える四つの問題点を指摘したい。

 一つ目は、原発の代替エネルギーについてだ。太陽光、水力、風力、地熱どれも原発に代替するだけのエネルギーにはならない。現在は地域別電力会社が天然ガスや石油を活用した火力発電の稼動率を高めることで対応しているが、これらはコストが非常に高く、温室効果ガスを排出する上、他国にエネルギー源を依存してしまうため安全保障上極めて良くない。加えて、東日本大震災以降フル稼働している天然ガスや石炭火力発電は、建設から40年以上経過した老朽化施設が大半で、原発よりもはるかに事故が起こる危険性が高い。火力発電が事故で1機でも停止すれば、大規模な停電につながる恐れがあり、そのような状況では当然企業も展開先を海外に振り向けるしかない。

 二つ目は、安全性についてだ。安全性の議論はどの程度安全であれば良いかという議論がいつも争点になるが、少なくとも日本では既に大地震・大津波に耐えうる原発が開発されている。北海道大学大学院教授の奈良林直氏は次のように主張している。「まず、日本の原発すべてが危ういように報道されていますが、そうではありません。東京電力福島第一原発(F1)の1号機から4号機は事故を起こしましたが、F1の北にある東北電力の女川原発は、大地震と大津波に耐えてきちんと生き残りました。地図で見るとわかるように、こちらの方が震源にもっと近かった」。福島原発の1号機から4号機はアメリカ製の古い型で、東北電力の女川原発はもっと新しい。そして中国や米国が現在建設している原発(AP1000型、3・5世代)は更に新しく、外部電源なしで原子炉を冷やせる技術を有する。つまりこれは福島第一原発と同じ状況に置かれても3・11で起こったような水素爆発も、その後の事故も発生しないということを意味する。そして、この米国や中国が建設している世界で最も安全な原発技術は日本の東芝が有するものだ。

 三つ目は、国家安全保障上の問題である。先にも少し言及したが、外国の資源に依存する発電方法は国家安全保障上好ましくない。1941年に始まった日米開戦のきっかけは、欧米列強の日本に対する「ガソリンの禁輸措置」であった。1941年当時、日本軍の石油備蓄量は約2年分。石油が枯渇すると航空機・軍艦・軍用トラックが使えなくなって戦争を継続できなくなるため、その時点で英米に宣戦布告されれば自動的に敗戦してしまうことから、軍部の強硬派はアメリカ・オランダの石油禁輸措置の経済制裁に対して、「即時開戦論」の激しい反応を示すようになり、戦争に突入していった。従って、日本の歴史からみて、エネルギーを外国に依存することは国家安全保障上好ましくないことが言える。

 そして最後は、周辺諸国の高速増殖炉の開発である。これは日本のみが「脱原発」をしたとしても、事故時の放射能飛散の危険を防ぐという観点から言って全く無意味だということを意味する。なぜならば、中国が既に日本に面する海沿いに数多くの原発を建設しているからだ。韓国も同様である。これらが事故を起こせば、仮に日本に一基も原発が無くても、中国発の放射能が黄砂のように日本に降り注ぐことになる。更に中国政府は2020年までに原発の発電容量を現在の7~8倍に急拡大する計画で、現在新規原発28基が建設中、38基ほどの新設も計画中である。このこと踏まえ、評論家の屋山太郎氏は、ヨーロッパの事例を挙げ次のように言っている。「ドイツ、イタリア、スイスは福島の事故を見て脱原発を決めたが、実は、フランスの原発で生まれた電気を買っている。この夏、フランスに行ったが、フランス人は笑っていた。原発は事故の危険があるから造らないとドイツ人は言っているが、われわれの原発はドイツとの国境近くに並んでいる。原子炉さえなければ安全だと思うのは、駝鳥(だちょう)の平和だ、と」。ダチョウは危険を感じると砂の中に頭を突っ込んで、敵を見まいとする。しかし、そこから危険は全く去っていない。フランス人はドイツの「脱原発論」を、この「ダチョウの平和」だと主張しているのだが、日本の「脱原発論」も全く同様である。

 確かに「原子力ムラ」といわれる巨大な癒着構造の問題はある。それはそれで正していかなければならないだろう。しかしだからと言って原発そのものを否定し、「脱原発」に走ることは、自分の首を自分で締めるようなものだ。

 私は過去、京大の古川和夫教授にならい「トリウム原発」を提唱したことがあった。もちろんそれを否定するつもりはないし「エネルギーの多様性」という観点から、「トリウム原発」の研究開発も進めるべきと考えるが、やはりウラン・プルトニウム型原発も先に述べた理由で全て廃止すべきだとは考えていない。

 「原発は人間が開発した悪魔の技術」だという意見がある。しかし先の古川教授が指摘していたが、核分裂物質原子炉というものは驚くほど単純な構造で、実は自然界にも存在する。アフリカで発見された有名な「オクロの天然原子炉」で分かったように、天然で何の技術が無くても炉が動く、いわば「自然エネルギー」である。

 結論として、我々は原発をどうすべきか。まさに「ダチョウの平和論」を抜け出し、日本の技術力を結集して、世界最高の原子炉を開発することこそ日本が進むべき道だと私は思う。地震にも津波にも耐え、事故も起きない炉をつくり、世界の原子炉を日本製にすることを目指すべきだ。これは日本ならできる、ではなく日本にしかしかできないことだろう。