護身術の真髄7 秘境 | 野人エッセイす

野人エッセイす

森羅万象から見つめた食の本質とは

幼少の頃から大学卒業まで毎年のように自然界の洗礼を受け続け、会社に入ってからはさらに迫力を増して20代後半まで続いた。

ヤマハに入り、日本最大の僻地と認定された電気もない火山島に赴任したが、自然界の脅威も桁違い、船や潜水具やクレーン、デリックなどの重機も1人で扱わねばならなかった。

ジープやバイクもドラム缶から自分で給油、スタンドへ行けばやってくれるパンク修理やオイル交換、ラジエターやクラッチ板の交換、船のFRP補修まで自分でやった。

車両は潮風と周年噴火して降り注ぐ火山灰の影響で鉄板はボロボロになり2年もたない。

装甲の厚い三菱のジープでさえ4年だった。

潜水具の修理からコンプレッサーを使ったエアタンクの充填から海の食糧調達までだ。

専門は海洋学と船の設計だったが、船長、エンジン修理、ダイバー、海中撮影まで1人でこなした。

24歳になったばかりだが、社長直轄でヤマハのマリン事業の屋台骨を背負わされたのだ。

体力と精神力だけではやれない、悟ったことは一つ、「無知は死を招く」だった。

一度海へ出れば見渡す限り黒潮本流で船も通らず助けも来ない。

天候が急変、波が一瞬にして絶壁になる海には巨大なサメがうようよエサを探し回っている。

漁船も漁港もない50人の島民がカナヅチなのは恐怖の海に入る習慣がなかったからだ。

些細なことでも、知らなかった・・で命を落とした人は大勢いる。

大学の頃はたいして勉強もしなかった野人は生き残る為に猛勉強を始めた。

切羽詰まれば人は大嫌いなこともやれるものなのだ。

月に一度会社のセスナで鹿児島にあがったが、入社1年目でも使う経費は百万を超えても自由、潜水具や漁具や船の部品の他、必要な本もどっさり買い込んでいた。大卒初任給が10万未満の時代だった。

電気もない島で、夜の11時には巨大な自家発電機を止めて携帯の蛍光灯の灯りでベッドで勉強した。

護身術に好き嫌いも感性も関係はなく、何をどのように学ぶかで結果が決まる理なのだ。

本で覚えるだけで使いこなせなければ何の意味もない。

同時に生半可に覚えていた海洋学も生きた現場から徹底研究した。

風向と風速、海流、波の力学、サメや他の危険生物の特性など、一つとして失敗は許されなかった。

毎日2回、ラジオの気象状況を聞きながら作図するのは欠かせない日課だった。

これらの事をやらなかったら野人はここにいなかっただろう。

30mの海底で空気が遮断されタンクを放棄、一気に浮上すれば肺は破裂、空気を吐きながら徐々に浮上したが、海面近くでは酸欠で失神寸前、それでも生き延びて来たのだ。

瞬時の判断と忍耐が命運を左右する、単なる知識だけでは不可能だ。

あら~・・と思った時には命はない、窮地の苦痛や怪我だけで澄んだのは大きく目的を逸れず、学び方も間違っていなかったからで、それに随分助けられた。

つまり、成るべくして成った結果とも言える。

常に先の先を見据え、たとえ1%でもあらゆる可能性を想定して手を打つかだ。

ここで多くの仲間が命を失い、友人も逝ってしまった。

会社では失敗はつきものと叱咤や始末書で済まされるが、繰り返せば済まされない場合は必ず来るだろう。

同じような小さな失敗を繰り返せば大きな壁を超えることは出来ない。

その壁の大きさにも、来るべくして来ることにも気づくことはない。

壁の向こうには挫折が待っている。

挫折などしなくても済むならしないほうが良いのだ。

船の座礁と同じで傷が深ければ母港に戻れなくなる。


続く・・