三重に来てからも海事六法を中心に野人の学びは続いていた。
学び方は人それぞれで受験勉強もやり方は自由だ。
一般的には本を読んで覚えるかノートをとるかだろう。
特に理系とは言い難い法律書ならなおさらだ。
知識そのものが目的ならそれで良いのだが、知識を使いこなしたいなら役には立たない。
つまり平面思考か立体思考かでその知識の高さが決まると考えれば良い。
使いこなせなければ護身術の目的は果たせない。
野人は受験や司法試験などの「学び」の為ではなく「使いこなす」為に学んでいるのだ。
道理で言えば、学びは目的ではなく手法に過ぎず、学び方にもまた手法がある。
この手法は野人が森羅万象から学び修得したやり方だ。
文学とは違い、現実に面したものは、使う目的なら実用書であろうが生物であろうが法律であろうが物理の思考で仕組みを捉える。
言葉などはたいしたことでもなく必ずしも覚える必要などない。
一通り簡単に読んで全容が何となく見えてくればそれからが本来の勉強なのだ。
覚えることなど、10が全体の勉強とすれば1程度でしかなく、その同じことを3も5も積み重ねる努力をしたのが大半の学者や国家公務員ではなかろうか。
その程度の生兵法に野人が負けるはずもない。
本をたくさん読むことと使いこなすことはまったく別のものだ。
高さの低いもの、高いものと積み上げていけば立体が出来上がる。
法を立体的な形にすれば「仕組み」が理解出来るようになる。
その段階で脇道に逸れることはなく、主観は削除する。
その「仕組み」を見極めることが先決であり、それに集中すれば理のない盲点、弱点がわかる。
法は人が作ったものであり、人が作ったものに完全、完成はないというのが前提だ。
船舶安全法、船員法、船舶職員法などすべての分野で野人はその矛盾点弱点を見出した。
これらを悪用すれば法の「裏をかく」ことになり、正しく使えば「道理を通す」ことになる。
法の盲点は、法そのものに矛盾点があるものと、言葉の解釈によりどちらともとれるものがある。
言葉で覚えた人は言葉に振り回され、そうでない人は本質で判断する。
言葉は単なる点であり本質は立体の中に存在する。
その立体は何の為に存在するのかを最大の重要素として念頭に置けば各法の本質がいとも簡単にわかる。
海事法は幾つかの分野に分かれているが、それぞれその主たる目的は単純で一つしかないのだ。
仮に主たる目的が2つなら同等であり、最初から2つに分かれると言う道理だ。
膨大な条項だが同じ分野の各項目は一つの「目的」の上に成り立っている。
見極めたその目的を大前提に思考の起点を決定、仕組みを知ればすべては方程式のように連立していることもわかる。
つじつまが合わないところは条項そのものの弱点だがそれは意外と少なく、解釈と運用の勘違いが大半だった。
弱点もわかり、理ターンマッチの準備は既に整っていた。
防御とは、攻撃も守りも、表も裏も、正攻法も反則も知り尽くして完成と言える。
野人は法を悪用することも裏をかくつもりもない、正攻法で道理を通す。
いつでもかかってきなさい・・猿
続く・・