初孫のケイトの入学式に、母と一緒に出席した。

 ケイトは赤いランドセルを背負い、お出かけ用のステキな服を着て、今日が特別な日であることを十分理解し、それでもなおうれしくて、うれしくて仕方がないという様子だ。その様子がなぜか私には子供の頃の娘の姿と重なって見えた。

 

 私の脳裏に、東京都世田谷区赤堤小学校に向かう私と娘の二人の姿が、ついこのあいだの事のように浮かんだ。やはり桜吹雪が舞っていた。桜の木が青空に映えて実に美しかったのを思い出す。
 

 それから一ケ月も経たない間に、私達はメルボルンへと出発した。娘が日本の教育に触れたほんのわずかな期間だった。

 

 外人として育った娘が、我が子の入学式に母として出席する。わくわくドキドキのケイトと、パパと、私と母と五人でやはり桜吹雪が真っ青な空に映える小学校の門をくぐる。



 一世代の時間が流れたことへの、このなんとも言えない心の波は何だろう? 年を重ねるというのは、「老い」という意識と嫌でも向き合わねばならない寂しさと共に、子供や孫がすくすくと成長していくのを見守る喜びが隣合わせになった心の不安定さと共存しながら、人間としてさらに成長していくことではないだろうか?



 それでは成長とはなんだろうと自分に問いかけると、それは人それぞれによって違うのではないかと私は思う。それぞれの人生、生活環境、性格等が人によって違うからだ。



 

 母と私と娘とケイトの四人で、パパに写真を撮ってもらった。女系四世代である。 さらに昔、母方の祖母と、母と私と娘の四人で写真を撮ったことがあった。祖母は九十二歳で亡くなったが、母もまたもうすぐ九十を迎える歳になった。



 ケイトが最近妙に大人びてきたこともあってか、私はなんだ感傷的になっている。それにしても桜の木は小学校の入学式に実によく似合っている。



 桜と言えば、その美しさに圧倒された忘れられない思い出がある。



 メルボルンから名古屋に転勤になって、私達は会社が用意した名古屋の社宅へと向かっていた。社宅は山崎川のすぐそばであった為、タクシーは山崎川のほとりをゆっくりと走った。



 折しも四月、春爛漫の山崎川のほとりである。まるでピンクのタペストリーで覆われているような、見事な桜の競演に私達は息をのみ、そしてため息をついた。名古屋の新参者の私達のために、タクシーの運転手は粋なはからいをしてくれた。別に川のほとりを走らなくても、行く方法はいくらでもあったからだ。



 久しぶりの日本の春であった。



 川原通の社宅には五年程住んで、現在の家に引っ越すまで、私は春、桜の頃になると、会社の同僚や友人達を招いて、よく我が家で花見の会を開いた。桜は変わらず毎年美しく花開くが、初めて名古屋に降り立ち、タクシーの窓から眺めたあの桜の美しさの感動には遠く及ばない。