私は比較的早くに結婚した。夫とは学生時代からの付き合いで、クラブ活動も同じ、多くの時間を共にし、ごく自然にそうなった。夫は大学卒業後、多くの人と同じように転勤が避けて通れない転勤族となった。東京から群馬県高崎市、伊勢崎市、と私達の人生ロードをスタートさせたのだ。



 伊勢崎市で三年目を迎えた頃私は二十八歳、主人も同じ二十八歳、年の割には長い時間を共に暮らしていたのに未だ子供を授かっていなかった。




 三十歳までの二年間、私達は子作りに真剣に取り組んだ。病院にもせっせと通った。子供がいる人生と、いない人生とではおそらく大きな違いがあるだろうというのが、私達二人の同じ意見だった。

 しかしながら、相当な努力をしたにも関わらず、コウノトリは飛んでこなかったのである。



 あきらめがいいと言うよりは、好奇心旺盛で、常に何かやりたい病の私の性格的なものも大いにあったと思うが、いとも簡単に私達は子供のない人生を考えようと決めた。




「僕は宮仕えで動きがとれない。君は山程時間があるんだから好きなことをやればいい」

 と夫は言った。理解があるのか、自分もまた束縛されず好き勝手に暮らしたかったからか? まあどちらでもいいか、と深く考えもせず、私は前々からやってみたいと思っていたことの準備を、着々と実行に移し始めた。




 その頃父のいとこがアメリカのシアトルで結構手広く事業をやっていた。私は彼を頼ってその会社を手伝いながら、まず語学学校に行こうと思っていた。住居も決まり、一ケ月後の航空チケットを握りしめ、新生活に心躍らせていたその時に、突然神様が私にくださった贈り物は妊娠だったのである。



 完全に心が別のところに行っていたからか、その反動は大きく、五ケ月を過ぎるまではつわりで死ぬ思いをした。百メートル先に行く間に三回も吐き、私はビニール袋を常に携帯していなければならなかった。




 五ケ月を過ぎると不思議なもので、私の心とお腹の子は仲直りをし、穏やかな生活が戻ってきた。その頃から出産するまでのしばらくの間は、私の人生の中で最も穏やかで、ゆっくりと時が流れ、二人の血を受け継いだ新しい命が生を受け、この世に誕生するという喜びと期待と希望に満ちた幸せなひとときだったと思う。



 そんな時私は、今まで思ってもみなかった、全く興味を抱くことがなかった分野に出会う。それは洋裁である。スポーツと音楽の道をひたすら歩いてきた私が、そんな心境になるなんて、今考えてみると不思議である。




 パラパラと雑誌をめくっていたら、いろんなパターンのデザイン型紙がすでにできていて、生地を切って縫い合わせるだけで服ができる。なーんだ簡単じゃないか、私にだってできそうだ。むしょうに子供の服を自分で作ってみたくなった。子供を宿しているそんな時期は、女性にとってはある種特別な時なのかもしれない。



 それから私は近くのドレメスクールに通い、せっせと洋服を作った。ミシンを購入し、折り返し止め専用のロックミシン、裁縫台等、洋裁に必要ないろんな物を買った。

 短い期間だったが、無謀にも母のコートまで作った。無難な色の生地でシンプルなデザインだったが、ちょっと奮発して上品でキラリと光るボタンをつければ、なかなかの出来ではないか。洋服を作る際のボタンの役割は重要だ、とその時私は思ったものだ。



 その後出産してから現在に至るまで、一度もミシンを踏んでいない。夫の転勤で引っ越しをする際、洋裁を趣味とする友人にそれらの物を差し上げた。

 現在の私は、近くに住んでいる三人の孫、母、夫、ペットの世話、そして少しの仕事に振り回され、服を買いに行く時間も作り出すのは大変だ。


 

 思えばあの幸せなひとときは、私の人生の中ではきらりと光るボタンのような時間だった。あの人生のターニングポイントがあって、今があるのだ。