あちこち転々とした中で、メルボルンで過ごした日々は、私達家族にとっては楽しいことばかりが思い出される素敵な四年間だった。


 娘はちょうど小学校時代を過ごすことになったが、現地校に通った為オーストラリア人のママ友もたくさんできた。 彼等はあの青い空と、広大な自然と、からっとした風土と同じように、開放的で、おおらかな人が多かった。


 子供達はお泊りに行ったり、来たり、大人達もワインを片手に家を訪問したり、されたり、バーベキューをしたりと、気楽な交流を楽しんだ。


 彼等は遊ぶことが大好きだ。週末になるとビーチハウスにくり出し、泳いだり、釣りをしたり、テニスやゴルフに興ずる。とにかく土地はたくさんあるので、大人も子供も安い費用で気楽にゴルフを楽しめる。日本からやってきた駐在員とその家族達は、せっせとゴルフに精を出すので、一生分のゴルフをこの地でやったと、先に日本に帰った人が話していたほどだ。


 彼等は週末をいかに楽しく過ごすかの為に一週間の平日を働く。年に数回のロングホリデ-を家族でいかに愉快に過ごすかの為に、一年間を働くのだ。


 ややもすると、仕事や日々の生活に流されがちな私達日本人と比べれば、めりはりのきいた生活の仕方、人生はおおいに楽しまないとね、という彼等のライフスタイルは、異論のある人もいるだろうが、私はおおいに参考になったと思う。


 特別にお金をかける訳ではなく、普通の家庭でたいがい広いバックヤードを持っているので、友人、知人がワンプレートの料理を持ち合って、ごく気軽にガーデンパーティーを楽しんだ。子供達は庭の隅にあるパパ手作りのツリーハウスによじ登ったり、周辺をかけまわって遊んでいたものだ。


 国内にいては、絶対にないだろうこともある。夫の仕事の業種は損保であるが、日本から遠く離れたメルボルンの地において、競業他社の家族達との交流は特別なものだった。


 当時メルボルンには、TK海上火災、T海上火災、Y火災海上、N火災海上、T火災海上と五社がオフィスを構えていた。私達が初めてこの地にやってきた時、先に駐在していた皆さんに、日々の買い物の仕方、学校のこと、病院等、暮らしていく為に必要な様々なことを教えて頂き、どれだけ助かったかわからない。


 損保会なるものがあって、私達同業他社の家族達は、よく集まってバーベキューをしたり、小旅行をしたりしたものだ。


 ある時損保会で、メルボルンから少し離れたグレートオーシャンロードを南下して、一泊旅行に出かけたことがある。数万年の時を経て波が海岸を変わった形に浸食し、奇岩が連なっていて、このあたりの観光名所の一つになっていた。


 中にロンドンブリッジというのがあった。土地が細長く海に突き出していて、ちょうど真ん中が波の浸食でぽっかりと穴が空いている。横から見るとまさにブリッジそのままだが、真ん中があまりに薄くなっているので、ある時ドスンと崩落するのではないかと、先端まで行くのが怖かったものだ。


 何年か前の新聞でついにロンドンブリッジが崩れた、という記事を読んだが、やっぱりという感じだった。先端にひとり取り残され、リコプターで救出されたらしいが、亡くなった人がいなくて幸いだった。


 さて私達の旅行だが、かわいいモーテルで一泊した。子供達も一緒にわいわいと食事をした後、いつものように子供達を寝かしつけ、さあこれからは大人の時間が始まる。

 当時私達がはまっていたのは、トランプゲームのナポレオンである。なかなか奥が深く、適度に複雑で、最後にどんでん返しがあるのがおもしろかった。


 少々のお金を賭けていたので、結構盛り上がり、私達はワインをちびちびやりながら、学生時代に返ったようにキャーキャー騒いだものだ。


 ところがその時はちょっと違っていた。どういう訳かT火災のFさんのご主人が始めから負け続けた。マージャンじゃあるまいし、トランプゲームでこんなことがあるだろうか。三時間もやると負けは相当な額になっていた。


 Fさん本人も、私達もだんだん顔色が変わっていった。もうこれで終わりにしようという時、誰かがこんなことを言った。


「Fさんの負けが千ポイントぴったりになったら、負けはチャラにしようよ」

 そうだね、そうだね、とみんなは言った。きっとそれはせめて最後にちょっと盛り上げて、場を楽しく終えようとの、慰めの一言だったと思う。


 千ポイントに届くくらい負けるのは大変なことだったし、ましてやぴったりになるなんて、百パーセントあり得ないことと誰もが承知していた。


 そして最後のゲームが終わった時何が起こったか? Fさんは大量のひとり負けをチャラにして、勝っていた人達もチャラとなった。一番びっくりしたのはもちろんFさん本人だったと思う。私達は帰りの運転は注意してね、奥さんと替わったほうがいいんじゃない? などと言った。奇跡とは起こるものだというのを、この目で見た瞬間だった。


 その後、損保業界というより、日本の金融業界は多くの統合、吸収、合併を繰り返し、当時の2社はなくなり、それぞれの社名も変わった。日本が経済的に冬の時代に突入する前の、経済発展中の最後の時代をメルボルンで過ごせたのは幸せなことであったと思う。