すっかり、ご無沙汰のような気がします。

アンコール遺跡をこの目でみてみたい。わりと単純な動機で、この旅は始まりましたが、


たいてい行きの飛行機の中で、いつもその国の歴史等を調べたりします。


次に更新するのは、アンコールワット、、、
と思っていたのですが、



どうしてもその気になれない。この重たいものはなんだろう? どーんと重たいものが頭の後にあって、書けないでいたのです。



日本語ガイドのPさんの話をすることにしましょう。


39歳くらいの、明るくて、とても感じのいい男性です。


とてもお世話になりました。日本語がとても上手で! その上とても丁寧に話すので(お仕事がらでしょうが 笑)  私達の日本語よりも、はるかに美しい日本語を話します。



いろんなお話をしました。

 
僕の年はね、多分39歳くらいなんです。明るく話すPさんですが、その内容はとても悲惨で、悲しいものでした。



ベトナム戦争の余波を受けて、カンボジア内戦へと発展し、ポル・ポト政権が国を支配した、1975年から1979年の約4年間、



極端な原始共産主義思想のもと、ほとんどの国民は強制的に農業労働を強いられ、農村へと移動させられた。



教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教家、等々、知的階層の人々は、思想統制の名のもとに、捕らえられ、虐殺された。



豊かな農業国だったこの国は、荒れ放題となり、
当時700万人ほどの国民のうち、200万人から300万人が死亡したと言われている。


内戦前の最後の国勢調査が1962年であったため、現在も詳しい死亡者の全容は明らかになっていない。



私はね、ポル・ポト政権が終わったあとの年の、雨期に産まれたらしいんです。

この頃に産まれた子供達は、皆自分の誕生日を知りません。



時計もない、カレンダーもない、日がのぼり、日が落ちるまで、ただ農作業をするだけの生活ですから、とPさんは言いました。



1992年に国連が入ってきて、国連暫定統治が始まりました。

いろんな国のお世話になりました。学校ができて、通学できるようになったら、先生が私達の誕生日を決めて下さいました。





ホロコーストで亡くなったユダヤ人の数は、600万人とも言われています。ヨーロッパの暗黒の時代。





カンボジアの暗黒の時代は、それに匹敵する、と思いました。





国連の代表として、カンボジアにやってきたのが、日本人の明石さんです。そんなこともあってか、カンボジアの人達とても親日です。



アンコール遺跡があるシェムリアップには、いち早く日本人によって日本語学校ができ、Pさんはその学校の1期生なんですって。


経済発展著しい東南アジアの国々。


カンボジアもまた素晴らしい成長をしているけれど、まだまだこれからですね。

行ってみてわかったことでした。東南アジアの極貧国のひとつです。



Pさん一生懸命ガイドのお仕事をして、結婚され、お子さんがふたりできて、最近家を建てたそう。

カンボジアでは、安定した生活のほうだけれど、月々のお給料は30000円くらいだそうですよ。



観光地に行くと、大勢の子供達が簡単なおもちゃや、雑貨品、スカーフなどを売りにきます。



1ドル! とか 2ドル! とか言いながら、私達の服のすそを引っ張ります。つい誰かが買ってしまうと、たちまち子供達に取り囲まれてしまいます。



昼間学校にいかないで、仕事をしている子供達。
この子達の半分くらいの子達の頭には、シラミがいますよ、とPさん。



カンボジアでの電気の普及率は、まだ6割だそうです。


そんなお話を、たくさん聞きました。



37ドルのアンコール遺跡観光許可証は、今後もカンボジア復興の、大きな助けとなるでしょう。



人類の歴史は、どこも結局戦争の歴史だけれど、あらためて戦争の二文字を、強く意識した旅となりました。






ある日の夕方、遺跡のてっぺんに登り、ジャングルに沈みゆく夕日を見ました。



雲が多くて、ダメかもしれないと思いながら、たくさんの人がじっとジャングルを見つめていたんです。







雲が多くて、夕日はみれないかもしれない😞






最後の最後に、一瞬雲の切れ間から太陽が顔を出し、


神々しいばかりの光を放ちながら、あたりを真っ赤に染めたんです。

歓声が上がり、隣にいた背の高い、青い目の外人さんと、ハイタッチしてしまいました。\(^-^)/



彼は微笑みながら

すばらしいね、、、

と言いました。


あれっ! 今思い出してみると、彼は日本語を話したんです。どうして日本語を話せるのかな?

どうして私を、日本人だと思ったのでしょう(^-^)🎵







次はアンコールワットを、アップしたいと思います。


つづきます