2019年 6月中頃訪れた
ポーランドの旅の続きです。

アウシュビッツ博物館 その2

ヒットラーがナチ党をもって、その権力を手に入れた1933年頃から、強制収容所は、ドイツ国内に開設され始めました。
ナチ独裁の反対者や、刑事犯罪者、好ましくないと思う人々を、そこに収監したのです。


戦争勃発後は、ドイツは占領下の国々にも、それを造り始めました。


ドイツの完全なヨーロッパ征服は、もう時間の問題と思われていた1941年、ナチスは、年齢、性別、思想に関係なく、すべてのユダヤ人をこの世から消し去る、という最終決定を出しました。


その手段は、1度に大量に殺害することのできるガス室でした。


アウシュビッツは、ナチスが建設した収容所の中で、最大の施設であり、ユダヤ民族大量虐殺の拠点となったのです。



なぜポーランドのこの地であったのか?

ナチスが占領下においたヨーロッパの、ほぼ中央に位置したこと、そして流浪の民であったユダヤ人が、ポーランドに最もたくさん住んでいたからでした。



















映画や、ドラマは、俳優達が迫真の演技をしますから、目を覆うような酷いシーンがたくさん出てきます。


でもここに残されている、物言わぬ遺品の数々は、ユダヤ人の家族が、身に付けていた、衣類、くつ、カバン、こまごまとした生活用品、食器や、ケトル、なべ等、、、です。

73年経った現在でも、何が行われたかということを、深い悲しみと共に、私達に語りかけているのです。


それらの遺品は、倉庫に保管され、軍事物資や、様々な物に再利用されました。


中でも、大量に袋詰めにされた、何トンもの女性の髪の毛には、何とも言えない気持ちになりました。フェルト生地、布地に利用されたのですが、

このコーナーでの写真撮影は、禁止になっていました。






男性の多くは、主にあまりに大量の遺体の処理に従事しました。


壁に並んでいるのは、ここで亡くなった男性の写真です。○年から○年まで生存したと書かれています。過酷な労働のため、3ヶ月から6ヶ月で衰弱し、ガス室送りとなったのです。





耐えきれず、ここに体を押しあてて、自ら亡くなった人もいたそうです。


第1アウシュビッツの、ガス室の入口、


ここでは、800人が、ビルケナウでは2000人がいちどに殺害されたそう。


そのすぐ隣には、焼却炉がありました。


ガイドのスタッフの方は、たんたんと、ここで行われた事実を私達に説明して下さいました。


収容人数が増え続けたため、急遽第2アウシュビッツ(ビルケナウ)が建設されましたが、それは規模は大きかったものの、木造の掘っ建て小屋のようなものでした。


ドイツの敗戦が決定した時、ドイツ兵は火を放って逃げました。なのでビルケナウのほうは、焼却炉や、一部を除いて、焼け野が原となり、ほとんど何も残っていないのです。


つづきます


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主人と共に、無事にペナンから帰国しています。
なんだか、だんだん記憶が薄らいでいくので、焦っています。


第二次世界対戦では、地球上で何らかの形で戦争に関わり、亡くなった人の数は6000万人だそうです。

でも強制収容所で亡くなった600万人のユダヤ人の数は含まれていません。なんという大きな数字でしょうね。😢