舞踊家 菊地尚子のブログ

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つれづれつらつら。

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中学生になり、北井スタジオでも上のクラスに上がる事ができ、
とうとう憧れの先生やお姉さん達とお稽古が一緒となりました。
お姉さん達のように、初めてサウナパンツをはいてお稽古した時の嬉しさは今でも覚えています。

そして私が上のクラスにあがると同時に
北井先生はもう子供が少なくなっていた下のクラスを閉鎖してしまいました。

なので北井先生がそう冗談で言ったのか、私が自称で名乗りだしたのか、
「北井先生の最後の弟子」と自分で思っておりました。

中学生活が始まり、部活に入らなきゃいけなかった訳ではありませんでしたが、
なんとか急いで帰ればお稽古に間に合いそうだったので、
私は陸上部に入りました。部活というものへの興味からです。
強いて言えば短距離とか幅跳び、高飛びなどは得意だったので、陸上部にしたのです。

でも実際はかなり強い陸上部だったため、朝練もあり毎日毎日長距離を走らされました。
しかし種目になると、バレエで鍛えたジャンプ力が功を奏したのか、
幅跳びの選手として地区予選を突破し、最後は国立競技場で飛んだりしておりました。

かといって、そこまで陸上部に情熱を注いでいる訳でもなく、
ただ先輩などもいたので、やらねばならないトレーニングを積んでいる毎日でした。
でも部活仲間と一緒に朝練に行き、帰りも部活仲間と帰ってくるなど、
友達関係はとても充実していました。

そんな部活とバレエをあたふたと毎日やりくりしている1年生の冬頃から、
私は時にバレエに間に合わないと、なんだか行く気がしぼんでいきました。
遅刻することの後ろめたさでしょうか。
それでも毎回電車に乗って、スタジオのある駅まで行くのです。
でもその後、スタジオまでの10分の道のりがどうしても気が進まなくなっていました。
今考えると、本当に疲れていたのだとも思います。
朝練から走り、放課後も走り、電車でも1時間立ったまま。
ようやく駅に着いても、これからあの稽古をするのだと思うと、
体力とともに気力もなくなっていってしまったのだと思います。

私はスタジオのある駅の周辺をウロウロしていました。
時には文房具屋さんやマックでぼーーっと時間を過ごし、
そして稽古の終わる時間にまた電車に乗って帰っていくことがどんどん増えていきました。

そんな事がどれぐらい続いた時でしょうか。

母から
「尚ちゃん、ちゃんと稽古に行ってる?」

と突然聞かれ、ものすごーく、どきーーーーー!!としました。

「行っているよ」と咄嗟に答えてしまい、

母は、
「レオタードが全然濡れていないのよ」と答えました。

そりゃそうです。

普段のお稽古では、滝の様に汗をかいているのが、
まったく奇麗なままでは、おかしい訳です。

私はまた咄嗟に嘘をつきました。
「昨日はお腹が痛かったから、見学したんだよ」と。

母はそれ以上は何もいいませんでした。
私を信じてくれたのだと私は思いました。

そんなワンクッションがちゃんとあったにも関わらず、
私のサボリ魔は、性懲りも無く継続されました。
次の日からは、駅のトイレの洗面台でレオタードを濡らしてから帰りました。
本当に本当にどーしょーもないヤツです。

どう考えてもそんな事がずっと通用するわけないのに、
やはりまだまだ子供だったのでしょう。
嘘や、ごまかしが通用していると思っていたのですね。

3ヶ月ぐらいのさぼりが続いてのち、例のごとく北井先生から
「尚子さんがお稽古にずいぶん来てませんが、どうされましたか」と
電話がかかってきました。

私はそんな事も知らずに,
地元の駅まで母が迎えに来ている車に普通に乗り込みました。

母はエンジンを付けず、しばしの無言のあと、
「さっき北井先生から電話があった。
尚ちゃん、やっぱりお稽古行ってなかったんだね。」
と言いました。

私は母の怒りと悲しさでどうしようもない顔を見て、
もうこれは本当にもう、だめだ。。。と思い、
どんなけの事を自分がしてしまったかのようやく気づきました。

子供の頃から電車で通う事も、バレエを続ける事も、全部受け止めて応援して来てくれた母を
こんな形で裏切るとは。
自分自身が情けなくなり、涙が止まらなくなりました。

「そのリュックを今すぐ駅のゴミ箱に捨ててらっしゃい」

と母にいわれました。

ずっとバレエ用に使っていたリュックでした。
レオタードもシューズも入っています。

私は号泣しながらものすごく謝りましたが、母は今回はまったく気持ちが変わらない様で、
いっこうに車を出す気配はなく、ただただ黙っていました。

こんな事をしでかしてしまって、
いつも受け止めてきてくれた親や、尊敬している先生を裏切るなんて、
バレエの先生になりたいなんて夢や、踊る事が好きって気持ちは、
戯言に過ぎなかったのでは?と疑問がよぎりました。
自分自身の気持ちにとても自信がなくなりました。

「踊りを辞めなきゃならないな」

と思ったのは、この時が最初で最後です。

車を出て駅まで戻り、駅のゴミ箱にリュックを捨てました。

そして泣きながら車に戻ると、母も泣いていました。


1時間ぐらい車の中で二人で泣いていたでしょうか。


「どうしても、バレエはやめられない。」

と、私は母に言い、
どうか続けさせてもらえる様もう一度心底お願いをしました。
どう考えても私の中で、やはり踊り辞めることは出来ないという気持ちだったのです。



「じゃあ、リュックを拾って来なさい」

と、母は言ってくれました。




翌日、私は部活を辞めました。
踊る事がまず第一優先である私に
部活は体力的にキャパオーバーだということに気づきました。
何もかもは私は出来ないんだなと、悟りました。
何よりも、「踊りをやりたい」という自分を、自分が一番裏切っていたのだなとも分かりました。

部活の仲間と一緒の時間が減ることは悲しい事でしたが、
それらは全然乗り越えられると思いました。

そして、北井先生のスタジオに数ヶ月ぶりに行きました。
先生の顔を見るのはものすごい勇気がいりました。
北井先生に会うなり、土下座して謝りました。
先生はそれほど何も言わず、受け入れてくれました。
心配やら怒りやら、色々飲み込んでくれたのだと思います。
本当にどーしょーもない最後の弟子です。


今改めて思うと、
行かなくなる理由って、行きたくないのではなく、
休めば休む程、行く事にただ単に気後れするのです。
行ったら絶対に充実して、踊る事の楽しさを実感できるのに、
休めば休む程、行き辛くなるのです。

あとは、母に対していつも頑張っている自分を見せていたいと思う所もあった様に思います。
踊りに関して自分の思う様にやらせてもらっていた分、
母に弱音を吐きたくない、がっかりさせたくないという気持ちが
知らず知らずあった様に思います。
かといってそこまで強くもなかったのでしょう。
本当に悪いごまかし方でバランスを取ろうとしていたんだなと。

どんな事件簿も、一見悪いことの様に思いますが、
それを通して反省したり、自分ってものを知ったり。。。

私はダメな面が多いので、ずーーとそんなことを繰り返しながらやってきました。

そして踊りを続けられる事は、自分の意志ももちろんですが、
周りの理解と協力があってのことだと、つくづく思うのでした。