10月12日から東京国立博物館で開催されている「最澄と天台宗のすべて」という展覧会に行ってきました
コロナの影響もあり、厳しい時間指定のなか黙々と展示品を見る展覧会でしたが、題材が渋いためか、美術史の先生みたいな感じのオジサマが多く、よく見かけるうるさい主婦(=私)があまりいなくてよかったです(私がいたけど)
展覧会の内容は、HPとか、どこかの解説とか、どなたかのブログに丸投げすることにして(相変わらずのスタンス)、
展覧会とは関係ないけど、天台系のお寺に見られるというスイカみたいな丸い頭をした薬師如来像について書いてみようかと思います
でも、その前に、展覧会に全く触れないのもどうかと思うので、印象に残ったことを一つ二つ、書いておこうかな
まず、今回の展覧会でお会いしたかった仏像は、
法界寺薬師如来立像です
法界寺といえば可愛らしい阿弥陀如来像が有名だけど、
お隣の薬師堂には秘仏の薬師如来像がいらっしゃいます
このお像が東京までいらっしゃって、ぐるりと360°、そのお姿を見ることができたのです
この像は最澄自刻像を伝える貴重な像といわれています(最澄自刻像については、このあと丸い頭の薬師像のところで書こうと思ってます)
私は法界寺で数年前にこの薬師像を拝観していますが(その時の記事は下に貼りますね)
薬師堂ではお像の左側からみることしかできませんでした
このお像の衣には繊細な截金模様が施されていますが、その時は左側の袖を遠くから見るのみでした
ところが、今回は、ぐるりと360°回って観ることができたため、左袖の模様と背面、右袖の模様が違っていることがはっきりわかりました!
法界寺薬師如来立像
けっこう、鼻が大きい
(画像引用 ★1)
左袖、右袖などの切金模様がちがう
画像引用 ★2
また、右袖の後ろ側の縦のラインに小さな衣の翻りが彫られていてたのも面白かったです
次に、印象に残ったことは
円珍のどんぐり頭を彫った仏師(工人)の腕のすばらしさ! です
これは図録を見て感動したのですが、下の三つの画像、そっくりじゃないですか?
当然、円珍ご本人がこんな頭だったんでしょうね
智証大師(円珍)坐像 御骨(おこつ)大師 滋賀 園城寺(三井寺)
国宝 9世紀末
このお像は、円珍の遺言により、没後ただちにつくられた像だそうです
像内に円珍に深くかかわる納入品が納められている可能性が高いそう(中身が見たい)
現在の園城寺(三井寺)唐院内の大師堂には、中央厨子に下の写真の中尊大師、向かって左に上の写真の御骨大師(同一人物が二体ってこと)、向かって左の厨子に不動明王(黄不動!)が秘仏として祀られているそうです
智証大師(円珍)坐像 中尊大師 滋賀 園城寺(三井寺)
国宝 10世紀後半
上の二体は、円珍没後につくられたもので、御骨大師は園城寺唐坊、中尊大師は比叡山山王院に安置されていたそうです
その後、円仁・円珍の門徒の相論が起こり、正暦四年(993)に円珍門徒が中尊大師像を担いで下山し、園城寺唐坊に祀ったんだそう
(つまり、園城寺に二体とも来てしまったということになる)
比叡山では円珍像が不在となってしまったため、新たに中尊大師像が造立されたと考えられているそうです
智証大師(円珍)坐像 良成作 京都聖護院 重要文化財
こちらの像は、中尊大師像の模刻だそうです
聖護院像は中尊大師像の模刻なので似ているのは当然としても、この三体、本当によく似ています
円珍は、平常時わりと憮然とした表情の人だったんでしょうかね
もしタイムマシンで円珍の時代に行ったら、すぐに見つけることができますね
次は絵ですが、あの『往生要集』を編纂された源信は、特徴的なゲジゲジ眉をお持ちだったことが、よくわかりました
恵心僧都(源信)像 南北朝時代 14世紀
滋賀 聖衆来迎寺
源信を描いた現存作例のなかで最古だそうです
恵心僧都(源信)像 室町時代 15世紀
滋賀 延暦寺
眉毛が長い
恵心僧都(源信)像 室町時代 15世紀
滋賀 延暦寺 横川元三大師堂
三枚目の画像では、眉毛が白髪のように見えますが、上2枚はそれより若い頃でしょうか?
ちょっと、社会党から首相になった村山富市さんみたいな、長い眉毛です
源信さんにタイムマシンで会いに行ったら、すぐわかる自信もついた!(ちょっとお会いしてみたいです)
展覧会の感想、もう一つ(まだあるのか)
京都で有名な慈恵大師(元三大師、がんざんだいし)良源のとても大きくて怖いお顔の像が東京調布の深大寺(お蕎麦で有名)にいらっしゃるそうです
なんと五十年に一度しか開帳されない像なのに、今回トーハクにおいでになっていたのでした
慈恵大師(良源)坐像 196.8㎝ 鎌倉時代 13~14世紀
東京 深大寺
(ここまで、画像引用 ★1)
とても大きくて怖いお像です
離れた左右の目から、光線が出そうです
ウルトラシリーズに出てくる宇宙人のようです(もうやめて)
元三大師良源さんは、比叡山横川に元三大師堂(四季講堂)とお墓がありますが、そこを訪れた時の記事も下に貼っておきますね
以上、今回の展覧会の感想でしたが、真面目な内容は、HP、他の方のブログ等を御覧ください
さて、ここから、れいの丸い頭の話です
スイカみたいとちょっと思ったりしています(冗談ですよ、はは)
まずは、どんな頭なのかというとこんな感じです
京都六波羅蜜寺薬師如来像
(画像引用 ★3)
滋賀 善水寺薬師如来像
(画像引用 ★4)
上の二枚の画像では、六波羅蜜寺薬師如来像の方がより真ん丸ですが、どちらも「肉髻どこ行った?」感がありますよね?
(私はかねがね、六波羅蜜寺薬師像は、スパゲティナポリタンのケチャップの残るおちょぼ口が可愛いと主張しているのですが、つい先日もお会いしてきたところ、やはり可愛さ満点でした)
で、
この丸い頭部は、真面目な表現をすれば「地髪部」と「肉髻」の境がはっきりせず曖昧である頭であり、清水善三氏は「肉髻一段」と呼んでおられます
そして、このような頭部を持つ仏像には、以下のような共通点があるようです
①薬師像である(立像、坐像どちらもある)
②十世紀中葉~十一世紀初頭に、天台系寺院で制作された
③地髪部と肉髻の境が曖昧なのに加え、額が狭く、細い三日月状の目を持つ
④股間にY字状の衣文線を持つ
このような点を共通の特徴としていることから、「原像」の存在が推定されています
そして、この「原像」への信仰が広範囲に広がることで、これを模倣した像も広がったと考えられるのです
では、「原像」とは何か?どのような像容だったのか?
今、手元に2,3の資料や論文があるのですが、それを読んでもはっきり言ってよくわからないです
私の読解力がないということがそもそものモンダイではあるものの、はっきりわかっていないというのも現状のようです
なので、はっきりしないまま、少しだけその内容をご紹介します←現存像の真ん丸頭を見ることだけでも面白いので
そこでまず、最澄と薬師像の関係から、ざざっと見ておきたいと思います
最澄は延暦七年(788)に比叡山の東塔虚空蔵尾で得た霊木を自ら彫り、それを本尊として一乗止観院(後の根本中堂)を建立しました
自刻した薬師像を奉安する時、最澄は燈明を掲げて
あきらけく 後の仏の御代までも 光つたへよ 法のともしび
と詠み、これが「不滅の法燈」として今も受け継がれているのは有名な話です
最澄がこの時自刻した薬師如来像は、五尺五寸の素木像だったそうですが、その後義真により朱衣金体像になったといわれています
この最澄自刻像がその後模刻されたということですが、実物を拝むことは出来なかったそうです
だったら、どうやって模刻したんでしょうね?
たくさんある模刻像の中で最も古いものが、奈良・室生寺金堂にある伝釈迦如来像(本来は薬師像といわれる)だそうです
室生寺金堂伝釈迦如来像(朱衣金体の像) 9世紀?
その後、室生寺像だけでなく、
最澄自刻像を模したという「肉髻一致」像が、滋賀県・京都府を中心に展開します
ここから、画像でご紹介
滋賀 雙林寺薬師如来坐像(9世紀?)
(画像引用 ★4)ちょっと、ベムベラ系ですな
京都 長源寺薬師如来立像(10〜11世紀初頭)
(画像引用 ★6)眉毛がつながってるわ…
京都 六波羅蜜寺薬師坐像 天暦5年(951)
(画像引用 ★3)再登場です!おちょぼ口
滋賀 善水寺薬師如来坐像 正暦4年(993)
(画像引用 ★4)
滋賀 蓮台寺薬師如来坐像 10世紀末〜11世紀初頭
(画像引用 ★7)
京都 円隆寺薬師如来坐像 長徳年間(995〜999)
(画像引用 ★6)
蓮台寺、円隆寺あたりから、それほど丸い頭ではなくなってきた感じがするのですが、横から見ると螺髪の刻み方が交差する斜めの曲線状(切子状)になっているので、「肉髻一致」ということができるのかと思います
蓮台寺像の横顔
(画像引用 ★8)
円隆寺像の横顔
(画像引用 ★8)
…とすると、そもそも「真ん丸」とか「スイカ」とかいう私の表現がおかしいのかな…
ここで再度、
「肉髻一致」像の原像は何?
という初めのモンダイに話が戻りますが、
今の段階で、下の二つの説を見つけることができました(もっとあるかもしれませんが)
・全部、最澄が彫った自刻像を原像とする説、
・初めの頃の像(雙林寺像、室生寺像)は最澄自刻像を原像とするが、その後は最澄自刻像を模した円仁・円珍時代の薬師像を原像とする説(結局最澄自刻像の流れを汲むことになるけど)
どちらの説がよいのか、わかりません
ちなみに、根本中堂は承平五年(935)に火災に遭い、最澄自刻像はその時に「救出」されたそうです
秘仏であった最澄自刻像を「救出」する際、ついでにじろじろ見て目に焼き付けた可能性が考えられ(私なら写真撮るけど)、これがどのようにその後の薬師像に影響したのか、興味深いところです
また、「肉髻一致」像について、独自に滋賀県や京都府の仏像を調べたところ、先行研究にあげられたもの以外にも同様な特徴を持つ像があるようで、今後の課題となりそうです
当時は天台系だった寺院も、現在は改宗して別の宗派となっている可能性もあるので、一つ一つのお寺の歴史から辿りなおす必要がありそうです
さらに、六波羅蜜寺像のように、スイカみたいに真ん丸な頭部を持つ像については、
当時の仏像の和様化との関連も指摘されています
展覧会でも登場した、源信の『往生要集』の別相観には、阿弥陀の理想的な姿として四十二相が説かれていますが、その中には「面輪円満」(顔が円満であること)が理想であるという項目があり、これが仏像の和様化に関連している可能性が考えられると思われます
『往生要集』は極楽浄土へ往生するためのマニュアル本であり、別相観では阿弥陀如来像の理想的な姿を「観想」する(イメージする)ことが、具体的に説かれているのですが、真ん丸な頭が理想であれば、それを具体化した仏像が流行したことは充分に考えられます
そういえば、源氏物語絵巻の人物も丸顔だし、日本人は丸顔が好みなのかしらね?
令和の時代の好みはどうなんでしょう?
画像引用
★1 図録
★2 下記
★3 『古寺巡礼京都5 六波羅蜜寺』
★4 『伝教大師1200年大遠忌記念特別展 最澄と天台宗のすべて』
★5 別冊太陽『仏像』、平凡社
★6 仏像集成3『日本の仏像<京都>』学生社
★7 仏像集成4『日本の仏像<滋賀>』学生社
★8 清水善三「和様の形成」『平安彫刻史の研究』、中央公論美術出版、1996
参考文献・図書
『伝教大師1200年大遠忌記念特別展 最澄と天台宗のすべて』、東京国立博物館等、2021
浅湫毅「伝統の継承ー最澄自刻の薬師と円仁請来の阿弥陀」『天台宗開宗1200年記念 最澄と天台の国宝』、京都国立博物館等、2005
清水善三「和様の形成」『平安彫刻史の研究』、中央公論美術出版、1996
濱田隆「比叡山の念仏と天台浄土教」『図説日本の仏教三 浄土教』、新潮社、1988
仏像集成3『日本の仏像<京都>』、学生社
仏像集成4『日本の仏像<滋賀>』、学生社 等
・ 法界寺薬師如来像を拝観した過去記事
・元三大師良源の四季講堂とお墓に行ったときの記事
★2 画像をお借りしました