鎌倉の海と江ノ電と和田義盛の墓 | 奈良大好き主婦日記☕

奈良大好き主婦日記☕

鎌倉在住
奈良や仏像が好きで子育て終了と共に学び直し大学院博士課程修了、研究員になりました。
テーマは平安後期仏教美術。

明日香村、山の辺の道等万葉集の故地が好きです。
ライブドアにも書いていました(はなこの仏像大好きブログ)http://naranouchi.blog.jp

 
今から一年くらい前、髪の毛をショートにしたくて海の近くの美容室に変えました(どうでもいい個人情報)
お客さんの髪型をセミロングからショートにするのって、美容師さんにとってなぜか嫌な作業のようで、何か所か美容室を変えましたが、皆おっかなびっくりで、少ししか切ってくれなかった
ようやく、ためらいなくショートにしてくれる美容院を海辺に見つけ、以来海を見ることが多くなりました

 

 

 

鎌倉の海

美容院からの帰り道、由比ガ浜に下りてみました

まだ少し肌寒いこの季節の海は、訪れる人もまばらです

 

↓由比ヶ浜から逗子マリーナ方面を望む

 

 

角度を南にずらすと海が広がっています…空も海も青いけど

逗子マリーナの先にあるはずの三浦半島は見えません

 

 

私の偏見に満ちた感覚によれば

鎌倉には、「海の文化圏」と「山の文化圏」があるように思う

 

「海の文化圏」には

日蓮宗の寺が多く、

海好きで流行に鋭く意識高い系の「若者」が

常に集まる

 

これに対して

「山の文化圏」は、

禅宗(臨済宗)の寺が多く、

地味な生活者が多い 

(寺の宗派と文化に因果関係はないと思いますし、あくまで私個人の感想です)

 

子どもの頃から「山系」の鎌倉で育った私は

「海系」の文化になんとなくニガテ意識があります

コロナ前のことですが、

埼玉の友人などが由比ガ浜の「ナウい(死語)」海の家に行ったなどという話を聞くと

背筋が寒くなったりします

鎌倉に住んでたって、住んでるからこそ、そんなん知らん人もいるんだよ

そんなもんだよ

などとも言えず、知らなくて悪かったねと心の中でつぶやいたりする

これって、バブルの頃、流行りのディスコ(死語)に行けなかったのと似た感覚
 

 

でも、こうやって今、静かな由比ヶ浜を歩くと、

とても癒されることに気づいた

(美容室を変えてよかったなぁ)

 

 

由比ヶ浜から西の方向には、稲村ヶ崎

 

その昔、新田義貞が「剣投ぜし」古戦場だったところ

新田義貞は海を知らない山武士たちの前で、引き潮を狙って剣を投げただけ

山武士はびっくりポン!で「さすが新田さん!」となっただけ

新田さん、魔術師か詐欺師かどちらなんだか(武士です)

 

それから、稲村ケ崎は桑田佳祐監督の「稲村ジェーン」の舞台でもあります

当時喜んで観に行きましたがなんだか「??」な映画でした

「稲村ジェーン」でデビューした加勢大周は今どうしているのでしょうか?

(しかし稲村ジェーンのロケ地はまたしても伊豆だったらしい…「鎌倉殿の13人」のオープンセットも伊豆だし、おそるべし伊豆)

 

 

江ノ電

こちらは、江ノ電長谷駅脇の踏切↓

写っているのは極楽寺駅方向に進む江ノ電

 

 

 

おっと!こんな細い道にも江ノ電が見えた

こちらは、和田塚駅から鎌倉駅方面に向かう江ノ電でした

 

和田塚駅は、鎌倉駅の隣の小さな駅です

 

江ノ電路線図↓和田塚は鎌倉駅のすぐ隣

 

 

和田義盛の墓

この江ノ電和田塚駅の海側には和田塚というお墓があります

 

和田塚前の道しるべ↓

 

 

 

和田塚は、和田一族のお墓

 

この場所からは、明治時代、道路工事の際に人骨がたくさん出てきたそうですドクロドクロ

その時の人骨が、和田合戦で負けた和田一族の骨と推定され和田塚と名付けられたんだそうです(もっとも、由比ガ浜あたりは掘れば人骨がザクザク出てくる場所で、文化財にもならんと聞いたことがありますが)

 

和田塚と呼ばれるこの場所は、実際は、鎌倉唯一の高塚式古墳のあった場所だそうですよ

しかしまあ、実際は何か?はこの際置いておくとして

ここは、「鎌倉殿の13人」で活躍中の和田義盛も葬られた墓として知られているわけです

 

説明版↓

 

↓説明版とともに

とても簡易的なノボリが立ててあります(鎌倉市はお金ないんかい?)

 

この場所、大してい広くないのにたくさんの石碑の類があって、

中には、真っ二つに割れた墓石もあります滝汗

石碑も斬られたんでしょうかね?

 

 

こちらには、顔が削られたような地蔵もいます滝汗

どちらも顔面がボロボロですね

 

 

日蓮宗の南無妙法蓮華経もある

 

「妙法」の上がない石碑滝汗

 
 
 
和田合戦
和田塚の石仏類に多少ゾワッとしましたが、
じゃあその「和田合戦とは何?」ということについて、そんなに詳しくは知らないけど
簡単にご紹介します
 
和田義盛(13人のメンバー)

 

分かる範囲でですが、①侍所別当になるまで、➁北条氏と13人の合議制、③和田合戦と順を追って「なんとなく」(←大事)書いてみようかと思います

 

①侍所別当になるまで

和田義盛は三浦氏と親戚関係にありました(三浦大介義明の孫)
石橋山の戦いの後に、頼朝に仕えました
ドラマの中でも、たしか(正確なセリフは忘れましたが)「頼朝に仕えて役職につきたい!」みたいなことを言ってましたよね?
頼朝も「それでは幕府を開いたら侍所の別当にしよう!」みたいなことを言って応じていたと思います(録画を見返せばいいんだけど、めんどくさい)
 
その後頼朝は、東国の国衙をおさえ、国司を差し置いて武士達の所領を安堵しました(本来は朝廷の命令を受けた国衙の仕事)
 
そのため武士達は競って御家人となりました
頼朝は鎌倉入りしてすぐに御家人統率のために侍所を設置、約束通り?和田義盛は別当(長官)になりました(めでたし、めでたしニヤリ)
 
 
②北条氏と13人の合議制
頼朝の死後(馬から落ちて落馬して)、源頼家(私の中では頼家は「草燃ゆる」のヒロミ・ゴー)が二代目将軍になりましたが、東国には動揺が広がりました
 
そこで頼家の母政子は、頼家の独裁をおさえました(母親なのに、「こわい」)
 

↓北条政子(見開いた目が「こわい」←二回目)

 

 

政子の父、北条時政13人の御家人の合議により訴訟の裁決を行うこととしました

1203年(建仁3)には、北条時政により、頼家は伊豆に幽閉されてしまいました…かわいそうなヒロミゴー(ちがうから)

そして時政は、頼家の弟源実朝(私の中では「草燃ゆる」の篠田三郎=ウルトラマンタロウ←タロウを三郎が演じた)を将軍に立て、自分は政所の別当に就任しました

ここに北条氏による執権政治が始まりました

 

かわいいと思ったら、なかなか狡猾な時政↓

 

 

元久2年(1205)、時政は失脚し(宮沢りえのせい)、北条義時が執権に就任しました

 

義時さん、執権就任、おめでとースター

 

 

 

③和田合戦

健保元年(1213)になると、北条氏打倒の企てがあることが漏れ、和田義盛の子義直・義重、甥の胤長らが捕えられました

 

そこで、上総にいた和田義盛は鎌倉に来て実朝に許しを乞いましたが、胤長は義時により処罰されてしまいましたガーン

 

和田義盛は怒り💢、一族を率いて義時邸を攻撃爆弾

 

これが、和田合戦パンチ!爆弾

…なんでも、若宮大路を中心に二日間も合戦が続いたそうです

 

この合戦で、和田氏は滅亡しましたが、これ、実は北条氏の陰謀とだったも言われているそうですよ(こわい時代ですね)

 

合戦後、義時は和田氏から侍所の別当の地位を奪い、北条氏は民事・軍事にわたる幕府の要職を独占し、実権を握りました(これぞ執権!)

 

 

 

キラキラキラキラキラキラ

 

ところで、和田合戦で「和田氏は滅亡」したというけれど、

私、あの辺りに現在お住まいで、和田氏の血を引くという「和田さん」を存じ上げております

だから、「滅亡」は言い過ぎなんじゃないの?

 

 

 

おまけ

先日、大河ドラマ館で思わず買ってしまった

義時印のエコバッグ北条氏のミツウロコ印の鳩サブレー

なんで、鳩サブレーのデザインはいつも秀逸なんだろう?困るわ~

 

 

https://ameblo.jp/naranouchi/entry-11918420957.html